小名木川沿い~ジョン万次郎宅跡から北の湖部屋へ①

小名木川でハゼ釣り

2015年11月の末、天気のよい日に小名木川沿いを歩いた。

季節が秋を迎えると、小名木川には釣り人たちの姿が多くなる。「ハゼ」を釣る人たちだ。

獲物を覗き込むと、「これ、持っていくかい?」と声をかけられた。気のいいおじさんだった。

江戸時代の地図と小名木川


小名木川は、江戸時代に徳川家康の命で開削された運河。

東の「旧中川」から西の「隅田川」まで全長は4.64キロ、千葉・行徳の塩などを運び「塩の道」とも言われた。

この日は、ひざの調子が悪かったので、走りではなく、川に沿って歩くことにした。

JR貨物の橋

西に向かって2キロ余り歩くと、鉄橋が見えてきた。

廃線になった鉄道路線の鉄橋かと思っていたが家に帰って調べてみると、現役の鉄橋だった。

JR貨物の貨車が、平日に3回ほど、鉄道のレールを積んでここを通過しているという。

線路を左に進むと、イトーヨーカ堂の大型ショッピングモール「アリオ」が建っている。

ジョン万次郎宅跡案内

「アリオ」近くにある北砂小学校の入り口に、「中浜万次郎宅跡」の案内板が立っていた。

幕末から明治にかけて、西洋の事情を日本に伝えた人物として知られる「ジョン万次郎」だ。

案内板には、”明治元年、土佐藩に登用され、この地にあった土佐藩の下屋敷の中に住んでいた”と書かれている。

その後、万次郎は「開成学校(東大の前身)」で英語の教授になるが、合わせて11年間、ここで暮らしていたという。

ジョン万次郎写真

万次郎は文政10年(1827年)、土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)の半農半漁の家の次男に生まれた。

14歳の時、手伝いで漁に出て嵐に遭い、伊豆諸島の南にある鳥島に漂着する。

漂着から143日後、アメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」の乗組員が、ウミガメの肉を食べようと島に上陸したことで、幸運にも発見され救助される。

ジョン万次郎の「ジョン」は、この船の名前に由来する。(当時アメリカが、油をとるため捕鯨をしていたことは、現在の捕鯨環境を考えるうえで、とても興味深い)

万次郎は捕鯨船のホイットフィールド船長にかわいがられ、16歳でアメリカの小学校に入学することになる。

以降、熱心に航海術や高等数学も学び、アメリカの捕鯨船で一等航海士を務めるまでになる。

しかし望郷の念やみ難く、25歳の時、帰国。

幕府や薩摩藩の取り調べを受けるなか、海外を知る情報源として評価され、土佐藩校の教師として、武士として召し抱えられることになる。

26歳の時には幕府直参となった。

お台場を築造した江川太郎左衛門が「ペリーとの交渉の通訳として使いたい」としたが、

「アメリカに有利な通訳をする心配がある」として、これは実現しなかった。

しかし、幕末の万延元年、勝海舟や福沢諭吉らを乗せてアメリカまで往復した咸臨丸の航海では、語学力や航海術などを生かして大きな役割を果たしている。

万次郎は「ABCの歌」を日本で初めて広めた人物であるほか、
坂本龍馬も、ジョン万次郎から聞いた世界観に大きな影響を受けたという。

ジョン万次郎のことを知れば知るほど、「教育がいかに大事であるか」ということを実感する。

児孫のために美田を買うよりは、教育を与えてやるほうが、大切な財産になるということだろう。

遊覧船

川沿いの遊歩道に戻り、歩いていると遊覧船がやってきた。

スカイツリー下から、下町運河をめぐる定期観光船だ。

この船は、この先にある「扇橋閘門」を往復する。

扇橋閘門

「扇橋閘門」は、下町のパナマ運河と呼ばれる。

手前の江東区側には、かつて「江東ゼロメートル地帯」呼ばれた低地が広がっている。

このため、大雨などの災害を防ぐため、周囲の水門をコントロールして、地域内の川の水位を周辺部よりも低くしている。

写真手前の水位のほうが、前方の水門・隅田川につながる水位よりも低くなっている。

下町のパナマ運河と呼ばれる

扇橋閘門の近くには地上から近づけないため、いいアングルの写真は撮れないが、水位の高低差は約2メートルあるとのこと。

観光船のホームページでは、「水のエレベーター」と形容している。

今はマンションが立ち並ぶ

扇橋閘門を過ぎ、再び小名木川沿いの道を歩く。

かつては、物資輸送のルートとして、両岸には倉庫や様々な製造工場などが立ち並んでいたが、今は高層のマンション群が目につく。

もう間もなくすると、隅田川への出口に架かる万年橋が見えてくるはずだ。

北斎、広重などによって描かれた有名な橋で、これまでにも何回かご紹介した。

今回はだいぶ長くなったので、ここで小休止。

続きは、次回に紹介したい。

「1日中山道」を走る

巣鴨地蔵通り

今回走ったのは、「旧中山道」。

「旧中山道(きゅうなかせんどう)」を「一日中山道(いちにちじゅうやまみち)」と、ある民放の女性アナウンサーが読んでしまったというエピソードは、今も誤読の最高傑作として語り継がれている。

どんな人でも知らないことはあるし、知っていても間違えてしまうこともある。

常に謙虚であるべく、自戒の念を込めて、今回のタイトルにしてみた。

ここは、「じいちゃん・ばあちゃんの原宿」として知られる巣鴨の地蔵通り商店街の入り口。

いつ訪ねても、多くの人たちで賑わっている。

実はこの通りが、旧中山道。
この通りの右側を並行して走る「白山通り」が中山道と思って走ったが、家に帰ってから地図で調べたところ、この道が旧道だった。

この道をまっすぐ進むと、暫くして、中山道の第一宿があった板橋にたどり着く。

板橋

地名の由来ともなった「板橋」。

石神井川に架かる橋だ。

中山道の第一宿

日本橋から「二里二十五町」余りとあるから、約10.6kmほど。

板橋宿は、江戸に近い方から平尾宿、中宿、上宿の三宿があって賑わったとのことだが、今も通りに沿って商店街が並び往時の様子を偲ばせる。

江戸の風情を残す家

この建物の右側は、どうやら不動産屋さんのよう。

左側のお宅の前には、お米の自動販売機が立っていた。

銭湯の横を入ると脇本陣

この銭湯も堂々たるたたずまい。

建物の右に道路があり、この先に「脇本陣」があったとの案内があったので入ってみた。

集合住宅が立っていた

「脇本陣」の建物は今は無く、その場所には集合住宅が立っていた。

近藤勇が幽閉されていた

建物の前には案内板が立っていて、次のようなことが書かれていた。

”脇本陣が置かれた豊田家は、平尾の名主を務めた家。

文政4年(1821)、中山道を経由して、江戸での興行に向かっていたペルシャ産のラクダを一目見ようと多くの人々が押しかけたという記録がある。

そして、慶応4年(1868)、新政府軍にとらえられた新選組の近藤勇が、平尾一里塚で処刑されるまでの間、豊田家に幽閉されていた”という。

近藤勇は、板橋で処刑されたことは聞いていたので、交番でゆかりの地を尋ねると、JR埼京線の板橋駅の前に近藤勇の供養塔があるとのこと。

近藤勇の墓所

供養塔は、板橋駅の滝野川口のすぐ前にあった。

説明には、

「処刑された近藤の首級は京都に送られ、胴体が、刑場より少し離れたこの地に埋葬された」

「この供養塔は、明治9年5月、隊士の1人てあり、近藤に私淑していた永倉新八が発起人となって造立された。

永倉は、戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分かったが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられている」

と、記されている。

土方歳三の名前もある

供養塔には、函館・五稜郭で戦死した新選組副長・土方歳三の名前も刻まれている。

永倉新八らが発起人に

敷地内には、永倉、土方、近藤 3人の肖像画も飾られていた。

一番左が、この供養塔造立の発起人であった永倉新八。

永倉は、元治元年(1864)の池田屋事件では、近藤、沖田総司らと共に池田屋に突入している。

池田屋事件は新選組の勇名が天下に轟いた事件として知られるが、今年は事件からちょうど150年を数える。

永倉新八墓

永倉本人の墓も、この敷地の一角、供養塔を見守るようにしてあった。

日比谷公園の猫ちゃん

日比谷公園

ここは日比谷公園。

日比谷の交差点に近いところにある心字池の周辺に、猫の3兄弟がいて以前から気に留めている。

その3兄弟は、いつみても公園の周囲で気持ちよさそうに寝ているので、私は勝手に「眠り猫3兄弟」と呼んでいる。

はじめて見かけたのは去年4月、今から1年半前のことだった。

池の上の木で寝る

一眼レフカメラを手にした若い男性が、盛んにシャッターを押しているので近づいてみた。

池の上に伸びた松の幹につかまりながら、昼寝をしている猫を撮っていたのだった。

バランスを崩して下に落ちたら池の中、

大丈夫かと心配しながら見ていたが、ネコちゃんは幹の上で微動だにせず、ぐっすりと寝ていた。

池のそばで寝る

近くの池のほとりでは、兄弟と思しき猫が、こちらもぐっすり寝ている。

近くには、同じ毛並・色艶の兄弟と思しき猫ちゃんもいて、勝手に3兄弟だと思ったのだった。

去年7月

これは、去年7月の様子。

このあたりの人通りは決して少なくないのだが、ご覧のように道の真ん中で横たわっている。

冷たい路上に体をつけて涼んでいるようだった。

彼ら3匹に共通するのは、いずれも人間を恐れずに堂々としていること。

かといって人と敵対するような乱暴な振る舞いをすることもなく、とても「おっとり」としていて親しみがある。

去年秋

去年の秋に見かけたときには、池周辺の芝の上で寝ていた。

日比谷公園には、このほかにも捨てられたと思われる猫がたくさん暮らしている。

ある夏の夜、公園の中を走っていたら、猫が輪になって集まっていて、何か会議でもしているかのように見えた。

カメラを持っていたが、写すことはなく走りすぎてしまい、あとで大いに後悔したことがあった。

公園内には、ネコを捨てないように呼びかけるポスターを見かけるし、

一方では、猫に餌を与えにやってくる女性の姿も見かける。

この猫たちは、「何処で何を食べて、どんな暮らしをしているのか」わからないが、

毛並も色つやもよく、とても健康そうに見える。

他の猫に比べると、格段におっとりとしていて、大人の風格がある。

今年1月

彼らを次に見かけたのは今年の1月。

寒さの中、暖かく差し込む日差しの中でまどろむ様子が見られた。

こうして寒い冬を越したことは分かったが、3匹揃って見かけることはなくなった。

今年10月

以来、近くを走った時は、池のそばに来て3兄弟がそろって健在でいるかどうか探るようになった。

今年10月には、木陰でまどろむ3匹のうちの1匹を見かけた。

アップ

陽射しがまぶしそうだ。

でも、この日見かけたのは、この猫ちゃんだけ。

他の兄弟の姿を見ることはできなかった。

それからおよそ1か月、11月に入り日比谷公園に行ったところ、3兄弟が池の周辺に集まっていた。

3兄弟そろい踏み

一匹は切り株の上、一匹は池近くの石の横、そしてもう1匹は植込みの下に潜り込んで寝ているようだった。

3匹とも健在で「めでたし、めでたし」と思う。

これから、いよいよ寒い冬。

「お互い頑張って、暖かい春を元気に迎えようね」

古本まつりで「斎藤月岑」の碑と出会った

神田古本まつり

神田の古書店街で、恒例の「神田古本まつり」が11月4日まで開かれている。

今年で54回を数え、千代田区観光協会のホームページには「1年に1度の古書100万冊の大バーゲン」との文字が踊っている。

年々、盛大になってきていると紹介されていた。

沢山の本が出ていた

神保町では、古書店の前の路上に古書が並べられ、多くの人たちが足を止め、本を手に取っていた。

最近は目にする機会がほとんどない「和綴じ」の本も、随分並んでいる。

享保18年刊「今昔物語」30冊、万治2年刊「宇治拾遺物語」全15冊と書いた紙が目に入ったが、いずれも値段は書かれていない。

大正15年刊 宮武外骨「明治奇聞」6冊は、3万8千円の値札がついていた。

世の中には、こうした本と出会いたいと思って、この古書街を歩き回る人もきっといるのだろう。

送料無料券

本はとても重たいから、全集本など自分で持ち帰るのが大変そうな図書には、「送料無料券」が付けられている。

お客さんには有り難いサービスに違いない。

私といえば、最近は小さな字が見えなくなったこともあり、本を買うことが以前よりずいぶん少なくなった。

こうして古本の中を歩いていると、「欲しい本と出会った」というよりも、「昔持っていた本を捨てなければよかった」と思うことの方が多い。

話の特集

若い頃、毎月購読していた「話の特集」。

「1965年から95年まで発行されたミニコミ誌の草分け的存在」とウィキペディアに紹介されている。

植草甚一、永六輔、竹中労、野坂昭如、寺山修司、和田誠、虫明亜呂無など個性的な作家が毎号名を連ね、とても好きな雑誌だった。

その「話の特集」が1冊ずつビニールの袋におさまって売られていた。

1冊500円だった。

発売当時の値段は、500円もしなかったように思う。

家ででネットで調べたら、「話の特集」の古本で1000円から1500円という値がつくものもあった。

保管場所がなくて、これまで「話の特集」は全部捨ててしまったし、それ以外の本でも大分捨ててしまった。

こうして値札を見ながら、「随分もったいないことをしてしまった」と後悔すること、しきりだった。

三省堂も古書買い入れ

これは、古書街近くの三省堂で見かけた看板。

三省堂でも、古書の買い入れをしているとのことだから、これからは利用させてもらおう。

何よりも、そうしないと本が可哀そうだ。

斎藤月岑生誕地

「古本まつり」を訪ねたその日、近くの神田司町を走っていると、歩道上に碑があるのを見つけた。

近寄ってみると「斎藤月岑(げっしん)居宅跡」と書かれ、次のように紹介されていた。

アップ

”斎藤月岑は 文化元年(1804)にこの地で生まれた。

斎藤家は代々、神田の6ケ町を支配する名主であった。祖父と父が手掛けた大著「江戸名所図会」を完成させたほか、東都歳時記、武江年表など、今日、江戸の町人文化を研究する上で欠くことのできない多くの著作を残している。

江戸を代表する文化人であり、神田の誇りである

明治11年(1878)永眠”

神田っ子が「斎藤月岑」という人物を大切にする想いが、よく表れている。

江戸名所図会

江戸文化に関心のある方なら一度は見たことのある「江戸名所図会」。

これは「御茶ノ水、水道橋」の江戸当時の風景。


私が「斎藤月岑」の名を知ったのは、謎の浮世絵師・東洲斎写楽の正体を探るテレビ番組だった。

斎藤月岑は、東洲斎写楽について「増補浮世絵類考」という書の中に

”写楽 天明寛政年間ノ人 俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀ニ住す 阿波ノ能役者也 号東洲斎”という記述を残している。

この記述を手掛かりに、今のところ、「東洲斎写楽の正体は、阿波徳島藩の能役者であった斎藤十郎兵衛である」という説が、きわめて有力になっていると、その番組では伝えていた。

「そうか、その斎藤月岑は、ここで暮らしていたのか」

そう思うと、斎藤月岑という人物が、一層親しい存在に思えてきたのだった。

「江戸名所図会」は、神田の古書街ではよく見かける本だ。

こんな日に、斎藤月岑の碑にめぐり会うのも面白いなと思った。

ひともしごろ

銀座4丁目交差点

歩行者天国の銀座4丁目交差点。
9月28日午後5時12分。

秋の日はつるべ落とし。そろそろ夕暮れが近づいてきた。

昭和41年のヒット曲「二人の銀座」(歌 山内賢、和泉雅子、曲ベンチャーズ、訳詞 永六輔)に
こんな歌詞があった。

待ち合わせて 歩く銀座

ひともーしごろ 恋の銀座
(注、私には、このように聞こえたのであって、正式な詞は違うので念のため)


僕と君が 映るウインド

肩を寄せて 指をからませ

二人の銀座

というのがあった。

年配の方には懐かしい曲だが、この「ひともーしごろ」という歌詞の意味を、当時どのように理解していたでしょうか。

恥ずかしながら私は
「人も し頃」と解釈、
人が一体何をする頃なのだろうと思っていた時期があった。

勿論、正しくは「灯ともし頃」で、街の明かりがともる頃ということ。

並木通り

「二人の銀座」の歌詞には、「すずらん通り」や「みゆき通り」が出てくるが、ここは並木通り。

銀座中央通りの西側を並行する通りで、この付近は銀座6丁目になる。

今は、外国の有名ブランドの店が軒を並べている。

朝日ビルディング

その通りを挟んだ反対側に、ブロンズ製だろうか、緑色の金属の碑が建っている。

前に建つビルには「朝日ビルディング」と書かれてあった。

啄木の碑

碑には、石川啄木の肖像と、歌が刻まれている。

”京橋の瀧山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな”

啄木は、明治42年3月から45年4月13日 27歳でこの世を去るまでの約3年間、当時この地にあった朝日新聞社に校正係として勤務した。

この間、歌集「一握の砂」「悲しき玩具」などを残している。

この碑は、啄木の没後60年の昭和48年に、銀座の人々によって建立されたと碑に記されている。

”夕闇の迫る頃、翌朝の朝刊の準備で、このあたりはあわただしい雰囲気にあふれていた”のだろう。

尚、碑の前に建つ「朝日ビルディング」は、朝日新聞社と関係があるのかと思って調べてみると、HPに

「朝日新聞グルーブの不動産部門の中核企業です」と書かれてあった。

銀座8丁目金春通り

銀座6丁目から銀座8丁目に向かう。

ここは、金春通り。

江戸時代、能の金春家が、幕府から屋敷をこの付近に拝領したことからその名がある。

以前、紹介した銭湯の「金春湯」の看板が見える。

最近、この通りは人通りがだいぶ増えているようだ。

この日も、二つの店の前に行列ができていた。

俺の割烹

この店は「俺の割烹」。

店の前に、料理人の名前と似顔絵、これまでどこの店で働いていたのを記した木の看板が掛けられている。

「立ち食い」で客の回転をよくすることで、一流料理人の料理を安く提供する。

そんなビジネスモデルで、近ごろ評判の店だ。

俺のフレンチ

そこから、新橋寄りに数十メートルいったところにある店の前にも行列ができていた。

同じ系列の店で、「俺の割烹」に先んじて開店した「俺のフレンチ」。

マスコミで紹介されたこともあってか、最近はいつも、こんな具合でこんでいる。

ここは、銀座の端っこ。
銀座は8丁目で終わり、その先は新橋になる。

銀座の一番はずれの地で、評判を呼んでいるこの新しいビジネスモデルが、この後「日本の食ビジネス」にどんな影響を与えてゆくのだろう。

そういえば、ハンバーガーの日本マクドナルドが1号店を出したのは銀座三越の店内。

昭和46年のことだから、冒頭の「二人の銀座」が世に出た年から5年も後のこと。

「二人の銀座」がヒットする2年ほど前、昭和39年の東京オリンピックの年に、御幸通りにたむろした「みゆき族」の若者たちは、まだハンバーガーを食べてはいなかったことになる。

今では、ハンバーガーは日本の食文化の中にすっかり定着したといってもいいだろう。

そんなふうに考えると、世の中はやはり少しずつ変わってきている。

この後、立ち食い文化が、日本中に広がってゆくのかどうか、興味深い。




プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
スポンサードリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR