小名木川沿い~②万年橋から両国へ

万年橋に来た

およそ4キロ歩いて、小名木川が隅田川と合流するところに架かる万年橋にやってきた。

葛飾北斎が描いた当時、小名木川は船の往来も盛ん。このため船の通行を妨げないように、橋が高く架けられていた。

元禄の頃、この付近には芭蕉が住んでいて、「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句も、このあたりで詠んだといわれている。

このため、橋の近くには、芭蕉庵跡の芭蕉稲荷神社や芭蕉記念館などがある。

清洲橋付近の地図

万年橋から隅田川を望むと、左手に清洲橋の優美な姿を眺めることができる。

「ドイツ・ケルン市のライン川に架かる吊橋をモデルにした」という説明が書かれていた。

清洲橋とヒミコ

この日は、松本零士さんがデザインした遊覧船「ヒミコ」が、隅田川を下ってゆくところに出会った。

正面は石川島の高層マンション群。

現代の隅田川を代表する景色の一つだ。

隅田川鮭の会

万年橋を渡って、北の湖部屋に向かおうとする途中、ある建物にこんな看板がかかっているのを見つけた。

「隅田川鮭の会」。近くには「やまだの鮭まつり」と書かれたポスターも見える。

近づいてポスターを見ると、「やまだ」とは岩手県の山田町であることが分かったが、「隅田川鮭の会」とのつながりはよくわからない。

近くに人影もなかったので、家に帰って調べてみたら、こんなことが分かった。

鮭の会看板

「隅田川鮭の会」は1984年、隅田川を昔のように鮭の上る清流にしようと、地元の有志の呼びかけで始まった。

ネット上の記述を見ると、毎年春先にサケの稚魚を放流し、今年・2015年現在で31回にもなるという。

稚魚の放流数は、毎年5000匹程度。

その稚魚のもとになる鮭の受精卵を、山田町の漁協から譲り受けていて、それを地元の小中学校の児童生徒たちが育てているという。

岩手県との縁は、そういうことだった。

それでは、肝心の鮭は隅田川に戻ってきたのだろうか。

ネット上の記述を見る限り、「放流した鮭が戻ってきた」というのは見当たらなかった。
残念。

夢の実現のためには、水質の向上だけでなく、鮭が産卵しやすい川の環境整備も進めなければならない。

「事はそんなに簡単ではない」のだろう。
というより、相当難しいと思う。

しかし、「隅田川鮭の会」の目標・夢は素晴らしい。

夢が持続し、長く受け継がれてゆくことを期待したい。

北の湖部屋

そして次に向かったのは、万年橋通りから少し入ったところにある「北の湖部屋」。

第55代横綱で相撲協会理事長だった北の湖さんは、11月の九州場所中に急逝、62歳だった。

部屋の前は、お相撲さんの出入りもなく、ひっそりとしていた。

記者らしい人が2人いて、弔問客を含めた様子をウォッチしているようだった。

歌手のさだまさしさんがテレビで、北の湖さんについてこんなことを言っていた。

”北の湖さんは憎らしいほど強く、子供たちには人気がなかった。
「江川、ピーマン、北の湖」という言葉があったほどだ”

そして、破った相手にいっさい手を貸そうとしなかったことで、いっそう憎らしく見えたことについても

”「自分が負けた時に相手から手を貸されたら屈辱だと思うから、自分も相手に手を貸すことはしない」”

との北の湖の言葉を紹介して、「理解できる」と話し、「強く立派な横綱」と評価していた。

大鵬道場

北の湖部屋から、東に数十メートル行ったところで、「大嶽部屋」と書かれた看板が目に入った。

そして玄関には、「大鵬道場」と書かれた大きな木の看板も掛けられていた。

横綱引退後に大鵬部屋をつくったのが、この場所だった。

大鵬道場

第48代横綱・大鵬がなくなったのは、2013年1月。

こちらは「巨人 大鵬 卵焼き」と言われ、子供たちに絶大な人気があったお相撲さんだった。

大鵬の訃報が伝わった時もここを訪れたのだが、昭和を代表する二人の部屋がこんなに近かったとは気づかなかった。

その二人とも、今はこの世を去った。

両国駅前の力士像と手形

JR両国駅前に建つ力士像。

台の部分には北の湖の手形もあった。

国技館内相撲博物館

両国国技館の中には相撲博物館があり、大相撲が開催されていない時期には、無料で展示を見ることができる。

入り口には、遠藤に「お姫様だっこ」をしてもらっている写真が撮れるパネルもあった。

大鵬も相撲博物館の館長を務めたことがある。

現在開かれている展示のテーマは、戦後70年ということで「大相撲と戦争」。

展示の中には、第43代横綱・吉葉山が戦場で銃弾2発を受けながらも、必死の体づくりと稽古で横綱になったというエピソードも紹介されていた。

子供だったので、吉葉山については「不知火型の土俵入りをする、きれいなお相撲さん」程度の記憶しかなかった。

「強い横綱」というイメージがなかったのは、そんなことが背景にあったのかもと感じた。

吉葉山が横綱になったのは昭和29年、

あの吉葉山・鏡里時代を知る人は、今ではかなり少なくなってしまった。

そして、昭和世代の私にとって、昭和を代表する二人の横綱が姿を消した今、

今日も、結語はこれでまとめたい。 

 ”降る雪や 昭和も 遠くなりにけり”  

(「降る雪や 明治は遠く なりにけり」 中村草田男) 

(追記)
平成生まれの皆さんだって、いつの日か、年号を「平成」に変えて、しみじみする時が必ず来るはず。

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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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