プロ野球草創期・伝説の球場跡を訪ねた


江東区新砂1丁目付近

今年の6月11日、NHKの「クローズアップ現代」で

「幻の日本シリーズ~フィルムからよみがえる選手たち」という放送があった。

番組は、昭和11年に行われた、日本プロ野球初の「日本一決定戦」を記録したフィルムが見つかったというものだった。

その中で映っていた投手は、あの伝説の名投手・沢村栄治。

ベーブルースを含む「大リーグ選抜」相手に、見事な投球をした選手として知られる。

その「日本一決定戦」の試合が行われたのは「洲崎球場」、
現在の江東区にあったと紹介されたので、早速訪ねてみることにした。

洲崎球場があったのは、現在の江東区新砂1丁目。

永代通りから南に、江東区運転免許試験場の方に曲がってしばらく行くと、右手に「洲崎球場跡」の碑が見えてくる。

洲崎球場跡

現在はオルガノという会社の敷地となっていて、ここに球場があったとは思えない。。

道路を挟んで反対側は、警視庁の第9機動隊の敷地だ。

当時の写真

これが、当時の洲崎球場。

日本でプロ野球団結成の機運が高まるきっかけは、前述の昭和9年の日米野球だった。

昭和9年12月には、大日本東京野球倶楽部(現 読売巨人軍)が誕生。

昭和11年には、7球団によるプロ野球公式戦が始まった。

球場見取り図

昭和11年のシーズン終了後、巨人とタイガースによる初の「プロ野球日本一決定戦」(3連戦)が、ここ洲崎球場で行われた。

発見されたフィルムには、巨人軍のエース・沢村栄治の映像が、わずか1球分だけ映っていた。

当時、沢村は19歳、
とてもきれいなフォームで、流れるように投げていたのが印象的だった。

2年前の大リーグ選抜との試合の時はわずか17歳だったことも、この番組で知った。

その時は、9奪三振と好投しながらも、ゲーリックによるホームランだけの失点で0-1と惜敗してしまったが、

その伝説のピッチングを彷彿させるような、素晴らしい投げ方がフィルムに残されていた。

江戸時代の地図

洲崎球場が作られた場所は、江戸時代には海のすぐ近くの新田開発されたところ。

昭和初期に球場ができた時も、すぐ近くまで海が迫っていて、

外野は、潮が満ちるとグラウンドが海水につかり、試合が中断することもあったとウィキペディアには書かれている。

大日本東京野球倶楽部の選手たち

初の「プロ野球日本一決定戦」が行われたのは昭和11年。

2.26事件が起きた年で、時代は、この後戦時色を強め、日中戦争から太平洋戦争と向かっていく。

沢村は、こうした時代の中で、合わせて3回、戦地へ赴くことになる。

ところが沢村は、戦地でボールの3倍以上の重さの手りゅう弾を投げることで肩を壊し、野球のボールを投げることができなくなってしまう。

昭和18年には、0勝3敗という成績で、巨人軍から解雇された。

そして昭和19年、沢村は3回目の戦地へ向かう途中、乗っていた輸送船が台湾沖で沈められ戦死。

27歳の若さだった。

巨人軍は、戦争後の昭和22年、沢村栄治の背番号14番を、プロ野球史上初の永久欠番としたほか、

同じ昭和22年には、先発完投型で、その年の最優秀投手に与える「沢村賞」も制定され、その功績と栄誉をたたえている。

今回、こうしてプロ野球草創期の洲崎球場跡を訪ねることで、

かつて、そこを舞台に活躍した沢村栄治の足跡をたどることになった。

その中で、

あの伝説の名投手沢村が、晩年、不本意な思いで野球界から去って行った経緯を、初めて知ることになった。

沢村の短かすぎる人生を思い、少しやるせなくなった。
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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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