高田馬場 と聞いて思い浮かべるのは何?

「早稲田大学に向かう学生さん」と答える人が今でも多いかも。
そして、「西武新宿線の乗換駅」という人も多いことだろう。

しかし、私はなんといっても「堀部安兵衛」。(安兵衛は通称、正式には堀部武庸たけつね)
あの決闘の地ということを、まず思い浮かべる。

西早稲田
早稲田通りを、大熊講堂を右手にJR高田馬場駅方向に向かって走ると、西早稲田のT字路に差し掛かる。
写真左手が早稲田大学方向。
この信号のトラックの止まっているところの右手に「八幡寿司」という寿司屋さんがある。
その壁のところにこんな案内板があった。
説明板
この交差点から高田馬場に向かう右手一帯に、昔、馬場があり、堀部安兵衛の決闘もこの辺りで行われたと書いてある。

お寿司屋さんのウインドには、江戸時代の名所図会などが展示してあった。
名所図会
旗本たちの馬術の練習場は、こんな様子だったようだ。

決闘は、馬場の一角で行われた。
時は元禄7年(1694年)3月6日、剣道の同門で、叔父・甥の義理を結んでいた菅野六郎左衛門が果し合いをすることになり安兵衛は助太刀を買って出る。
こちらは2人、相手は3人。

安兵衛は相手3人を切り倒し、こちらも菅野六郎左衛門が死亡。
この決闘で安兵衛の活躍が評判になり、赤穂浅野家家臣・堀部金丸(弥兵衛とも)が安兵衛との養子縁組をのぞむ。
当初断っていた安兵衛も折れ、結局は堀部家の婿養子に入ることになる。

そして、その7年後、今度は主君・浅野長矩が江戸城内で刃傷沙汰を起こし、あの「忠臣蔵」へとつながってゆく。
そして討ち入りの本懐を遂げた後、安兵衛は三田の伊予松山藩の屋敷(現在はイタリア大使館)に預けられ、切腹。享年34。
大使館の庭には、駐日イタリア大使が昭和14年に建てた義士の顕彰碑が今も残っている。

その碑は、泉岳寺で義士祭がおこなわれる12月になったら、このブログの中で紹介しよう。

碑
近くの水稲荷神社には、こんな碑と顕彰文があった。

説明
顕彰文の後段にこんなことが書いてある。

「金丸の娘・幸は、雑司ヶ谷・鬼子母神の参詣の帰途、高田馬場で決闘に出会った。
安兵衛のタスキがないのを見て腰ひもを解いて渡した。これが縁で堀部家の婿になったという。
元禄5年、安兵衛20歳、赤黒い腰ひもを渡した幸はわずかに5歳という。
世の義士の談義は往々にして、かくのごとき誤りとして伝わるものだ」

(これが書かれたのは明治43年、決闘の年が元禄5年となっていてウィキペディアの元禄7年とは違っている。また、金丸の娘の名前もウィキペディアでは「ほり」となっている)

しかし、この文章が語ろうとしていることは、とても大切なことだと思う。
噂話や推測が、いつしか真実として、世の中にはびこってしまうということなのだろう。

こうして文を綴るに際し、もって他山の石としなければ。
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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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