永代橋周辺

永代橋

隅田川に架かる永代橋。

赤穂浪士が討ち入りで本懐を遂げたあと、本所松坂町から泉岳寺へ向かう途中に渡った橋だ。

川の両岸は、隅田川テラスといって、散策やジョギングなどができる空間となっている。

写真の手前に鉄の柵が見えるが、こちらが隅田川の左岸で、私のジョギングのコースでもある。

転倒場所

橋の下を通り、川をさかのぼると両国を経て浅草へと通じる。

先日、このコースを走っていたところ足がもつれ、この場所で転倒。

両手を前に投げ出すように倒れ、顎で受け身をしてしまった。

その結果、近くの外科で縫合の処置などをしてもらう羽目になり、完治するまでのほぼ毎日、この地区まで通わなくてはならなくなった。

伊能忠敬住居跡

手当てを受けた病院のすぐ前は、江戸時代にきわめて正確な日本地図を製作したことで知られる「伊能忠敬」が住んでいたという場所。

この碑は、以前にも紹介したことがあったし、上野の「源空寺」にある”忠敬とその師である高橋至時が並んで眠っている墓”を訪ねてもいる。

そして一昨年には、北海道別海町の「伊能忠敬 最東端到達記念柱」まで足を伸ばし、その長い旅路に思いを馳せたこともあった。

最東端到達記念柱

これが2012年夏に撮影した「伊能忠敬 最東端到達記念柱」。

北海道東部、根室に近い原野に建てられていて、訪れる人も少なくひっそりとしていたことを思い出す。

(その時の様子は http://golby.blog.fc2.com/blog-date-20120821.html に記したので、ご覧ください)

伊能忠敬は、50歳になってから天文・暦などの勉強を始め、世界に誇る正確な地図を作り上げた人物として、”中高年の星”ともいえる存在、私にとってもただただ敬服するしかない存在でもある。

富岡八幡宮の忠敬像

そんな思いがあったから、病院の帰り道に「富岡八幡宮」境内にある伊能忠敬像を再び訪ねてみることにした。

富岡八幡宮は、伊能忠敬が日本各地の測量に出かける際は必ず、安全祈願に訪れたという場所。

伊能忠敬像の周辺には先日の大雪が残り、彼の偉業の裏にある大変な苦難を感じさせてくれるようだった。

ウィキペディアによれば、

伊能忠敬が実際に全国を測量して歩いたのは、満年齢で55歳から71歳のころまで。

蝦夷地まで歩いた第一次測量をみると、日程は往復で180日、1日に移動した距離は約18キロという。

そのうち江戸から青森までの測量では、1日の移動距離は40キロにもなったという。

毎日毎日、フルマラソン相当の距離を移動し、しかも精密な測量を行ったのだから恐れ入る。

改めて、凄い人物がいたものだと思う。

乳熊ビル

ここは、永代橋の江東区側のたもと、写真の右手すぐのところに橋が架かっている。

ビルの前に石碑が立っているが、近づいてみると「赤穂義士 休息の地」と記されている。

石碑


碑文によれば、

”ここに店を構えていた「ちくま味噌」初代の竹口作兵衛は、討ち入りに加わった大高源吾とは俳諧の其角門下として親しい間柄であった。

討ち入りの日は、乳熊(ちくま)味噌店の上棟の日で、本懐を遂げた一行を招き入れ、甘酒粥をふるまった。

そして、大高源吾は棟木に由来を認めるとともに、看板を書き残した”

おおむね、以上のような説明が紹介されていた。

ビルの名前

帰りぎ際、ビルの建物を見ると

乳熊(ちくま)ビルと書かれている。

どうやら、御子孫は今もこの地との縁が切れてはいないようだ。


このあたりは歴史の跡があちこちに残り、とても興味深い所、

この他にも、いくつか歴史の跡に出会ったので、別の機会にまたご紹介することにしたい。
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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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