英国大使館の土地問題

英国大使館

東京・千代田区一番町1にある英国大使館。

敷地の広さは、1万坪を越えるが、今、この都心の一等地を巡って日・英両国の間で協議が行われていると、近ごろニュースで報じられた。

皇居・半蔵濠の前

大使館は、内堀通りに面し、前方は皇居・半蔵濠。

皇居一周5キロのランニングコースは、今や全国のランナーに広く知られるが、内堀道路を隔てた向かいがそのコースとなっている。

365日、ランナーの姿が途絶えることはない。

この道路の両側には桜の老木が並木を作り、桜の名所となっている。

桜の名所

桜の季節には、近くの千鳥ヶ淵と合わせて、見事な日本の春の景色を見せてくれる。

写真の左手の塀は、英国大使館。

桜の植樹の案内板

この桜並木の下に、こんな案内板が立てられていた。

千代田区教育委員会によると、

”明治31年(1898)、時の英国公使アーネスト・サトウ(明治28~33年在任)がこの地に桜を植え、東京府に寄贈。

見事な桜並木となって多くの人に親しまれたが、戦災で枯れたため戦後再び植樹された。

以降新たな桜並木の名所として生まれ変わり、人々に愛され続けている”と紹介されている。

アーネスト・サトウ

アーネスト・サトウ(1843~1929)の父親は、スウェーデン国籍から何回か国籍と住所を変え、ロンドンに定住したという人で、日本の佐藤姓と関係はない。

18歳の時、日本について書かれた本を読んで日本に関心を持ち、イギリス外務省の通訳生の応募に応じて合格、希望通り日本駐在を命じられる。

1862年(文久2)、19歳の時に横浜港に到着したが、それから6日後に生麦事件が起きるなど、時代は幕末の動乱期の真っただ中だった。

以来、幕府や明治新政府の要人との会談の際の通訳官から始まって、のち書記官となり、

更に、シャム、ウルグアイ、モロッコで公使を務めた後、日本公使も務めた。

日本公使として来日した時は52歳、5年後の57歳で日本を離れたが、通算の日本滞在期間は、合わせて25年にもなる。

その間、明治天皇、徳川慶喜、西郷隆盛、勝海舟、岩倉具視など幕末から明治維新にかけての大立者の殆んどと間近に接し、日本に関する著作も数多い。

英国公使館は、はじめ高輪の東禅寺内に設けられたが攘夷派によって2度に亘って襲撃され、その後、品川の御殿山に建設されていた建物も高杉晋作らによって炎上させられるなどの難を受けてきた。

この場所に移ってきたのは明治5年、アーネスト・サトウがまだ書記官の頃だった。

現在、この地で、どんな土地問題が起きているのか、財務省のホームページに記述があったのでご紹介する。

地図

この地図は、英国大使館とその周辺を描いたもの。

英国大使館がある場所は、江戸時代は七戸、七日市藩など3藩の上屋敷、それに旗本・水野兵部の屋敷があったところで、面積は35002.57㎡。

1万1千坪を超える広大な土地だ。

この土地を
日本は英国にほぼ永久に貸与し、英国は賃貸料を払うということで、今日まで経過してきた。

ところが、英国にとっては年間8129万円(平成25年度)にも上る賃料支払いが重荷になったため、

英国からの申し出を受けて交渉が始まったというわけだ。

日本の財務省のホームページには、こう書いてある

”英国大使館敷地の底地所有権と借地権の交換に向けた協議を進めることで合意しました

日本国が英国政府に貸し付けている駐日英国大使館敷地について、今般、英国政府との間で、日本国の有する底地所有権と英国の有する借地権の借地権割合に基づいた等価による交換処理に向けて、協議を進めることについて合意しました。

(注)今後、不動産鑑定士による借地権割合の鑑定評価を実施し、協議が調えば、平成26年度以降、交換契約を締結する予定です。
      本交換処理により、大使館敷地の一部が日本国に返還されることとなります ”

内堀通り

新聞記事によると、

英国は約2割の土地の借地権を日本側に渡し、

日本は残り約8割の底地権を英国側に渡す、という内容の「等価交換」になる見込みのようだ。

この結果、日本は賃料収入を失う代わりに、路線価で140億円相当の自由にできる土地を手に入れることになる。

今後、大使館敷地のどの部分が日本側に戻り、どんな利用がされるのか、

貴重な財産だけに、関心をもって見ていくことも必要だろう。


尚、明治維新当時、倒幕勢力の薩長と深いつながりがあった英国は、公使館の土地のあっせんや条件等で明治政府とどんなやり取りをしていたのだろう、

そんなふうに思って、アーネスト・サトウの著作「外交官の見た明治維新」を開いてみたが、そのことに関する記述は見つけられなかった。

日本語の堪能なアーネスト・サトウは、日本との交渉の殆んどすべてに関わっただろうから、いろいろな裏事情も知っていたはずだから残念な思いだった。

今でこそ、金銭換算をすると莫大な金額になる行為だが、当時はそれほど重要な案件ではなかったのだろう。


余談になるが、アーネスト・サトウのことを調べていて興味深い記述を見つけた。

ウィキペディアによれば、

彼は、戸籍上は生涯独身だったが、日本女性を内妻とし3人の子供をもうけている。

そのうち、二男の武田久吉(ひさよし1883~1972)については、ロンドンに呼び寄せて植物学者としての教育を受けさせている。

武田久吉は日本に戻ってから、尾瀬の保護に努めて「尾瀬の父」とよばれたほか、1905年(明治38)には日本山岳会創立メンバーの1人にもなり、植物学者、登山家として大きな足跡を残している。

そんな親子2代に亘る足跡を見ていると

アーネスト・サトウと日本との間には、「サトウ」という名前だけではない、特別に深い縁があったのだなと思えてくる。

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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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