「忠臣蔵」義士祭の人出

12月14日は「義士祭」。
赤穂浪士が本所・吉良の屋敷に討ち入りをした日として、年配の人ならほとんどの人が知っている日付だ。
(元禄15年・1702年12月14日、これは旧暦だから太陽暦では1703年1月30日とのこと。
更に実際の討ち入りの戦闘は明け方だから、日付は旧暦で12月15日、新暦では1月31日ということになる)
私も四十七士の墓のある泉岳寺の近くの中学校に通っていたため、義士祭の当日には若い頃から何回も行っている。
今年は、たまたま別用で泉岳寺前を通ったところ、大勢の人出。
そうか、今日は義士祭だと気付いて、境内を覗いてみた。
土曜日ということもあってか、相当の混みようだった。

義士祭以外の日は、お参りの人は数えるほどで、参道はいたって静かだが、この日ばかりは様子が違う。
お店の人も、討ち入り衣装の半纏を着て、とても忙しそうだった。

中村錦之介、東千代之助、片岡知恵蔵、市川歌右衛門、大友 柳太朗 等々、昔の東映時代劇を見ながら育ってきた世代の人で、忠臣蔵、大石内蔵助、浅野内匠頭、という言葉を知らない人は皆無に近いのではないか。
ところが、先日、高校生と話す機会があり、「浅野内匠頭」の話をすると「知らない」とのことだった。
12月といえば、映画もテレビも「忠臣蔵が欠かせない」という時代があった。
そればかりか、講談、浪曲、そして三波春夫の歌謡浪曲と様々な忠臣蔵ストーリーが、12月になると世の中にあふれた。
時代が移り、近ごろでは12月になっても忠臣蔵の露出が激減したので、「さぞ、お参りの人出は減ったのでは」と思ったのだったが、そうではなかった。
この日は、本堂でお参りする人の列が長く続いていた。
本堂に掲げられている幕に描かれた家紋は、左が大石内蔵助の「痩せ右二つ巴紋」という紋どころ。
右は、赤穂藩浅野家の「丸に違い鷹の羽紋」だ。
写真左手の方に進むと、浅野内匠頭と夫人の瑤泉院、そして大石内蔵助以下赤穂浪士の墓があるのだが、この日は大変な混みようで、この日は墓所まで行くのをあきらめてしまった。
「まだまだ、忠臣蔵のファンは沢山いるのだなあ」と思いつつも、「これまで通りの人気が続いてゆくのは難しいのではないか」と思いながら、泉岳寺を後にした。

その後、第一京浜から日比谷通りに入って、芝公園近くまで来ると、何やら時代劇の装束に身を包んだ一団が前方からやってくる。
先頭を歩いているのは、どうやら「大石内蔵助」のようだ。
後ろには、赤穂浪士の一団が続いている。
先頭の大石内蔵助さんに「これから泉岳寺に向かうのですか?」と声をかけると
「一緒に行きませんか」との返事。
「今、泉岳寺から帰ってきたばかりです」と話して、同道はご遠慮申し上げた。

行進をしている人が掲げる幕には「財界二世学院」と書いてある。
去年の義士祭の日、泉岳寺から本所・松坂町の吉良邸跡まで走ったのだが、その時、中央区役所の前に集合し、これから出発しようという「財界二世学院」の人たちと出会ったことを思い出した。
「財界二世学院」とは、その名の通り財界人の二世のための教育機関であったようだが、今の活動については、ネットで調べたのだが、よくわからなかった。
ただ、このパレードはすっかり恒例になっているようで、泉岳寺のホームページにも、行進の到着時間が掲載されていた。

沿道の若い女性は、いかにも楽しそうな表情で、この行進を見送っていた。
ただ、この日比谷通りは明治時代に出来た道路で、江戸時代にはなかった。
財団法人 中央義士会が監修した「赤穂浪士の引き揚げ」という本には、赤穂浪士の一団は、日比谷通りから一つ海寄りの、第一京浜などの道を通っていると書かれている。
せっかくなら赤穂浪士たちが、実際に引き上げた道を歩いたらいいのにと思った。
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