秩父宮妃は松平容保の孫だった

秩父宮記念公園

御殿場市にある「秩父宮記念公園」に行く機会があった。

大正天皇の第二皇子として生まれた秩父宮と妃殿下が、戦中から戦後にかけて住んでいた別邸があった所だ。

勢津子妃殿下の遺言で御殿場市に遺贈され、平成15年から一般に公開されている。

ヒノキ林

敷地の広さは約1万8千坪もある。

入り口からしばらくヒノキ林が続いていて、幾何学的な景色が広がっている。

訪ねた日は30度近い暑さだったが、林の中はひんやりとして、4~5度ほど気温が低いように感じた。

母屋

この建物は別邸の母屋。

もともとは、享保8年(1723)に建てられた豪農の茅葺きの建物であった。

その建物を、宮家の前にここを別荘としていた井上準之助が昭和2年に移築、

その後に、宮家が購入したものだ。

昭和16年から約10年間ほど、秩父宮の肺結核の治療・療養のため、ご夫妻が別邸としてお住まいになっていた。

(井上準之助は、昭和初期の不況下に大蔵大臣として緊縮財政で経済のかじ取りを行い、これを不満とする勢力によって暗殺された。

城山三郎の「男子の本懐」の主人公の1人であり、もう一人の主人公である浜口雄幸とは、青山墓地で墓を隣り合わせにして眠っていることは、以前紹介した。

2013年1月7日のブログ「お墓の隣組②~男子の本懐の二人」)

秩父宮像

母屋のそばに立つ「朝倉文雄」作の秩父宮の像。

登山、スキーなどスポーツを愛好して「スポーツの宮様」と評された。

像の正面に、富士山が見えるということだったが、この日は曇り空で、富士の雄姿を仰ぎ見ることはできなかった。

勢津子妃殿下

記念館には、お二人の横顔や、様々なゆかりの品が展示、紹介されている。

そして「へぇーっ そうだったのか」という説明が目に入った。

それは、勢津子妃殿下は、幕末の会津藩主・松平容保(かたもり)の孫であったということだ。

詳しく言うと、容保の4男で外交官・松平恒夫の長女としてイギリスに生まれたと書いてある。

本名は節子といったが、秩父宮の実母である貞明皇后の名「節子(さだこ)」の同字を避け、成婚の際に「勢津子」と変えたのだという。

勢津子の「勢」は皇室ゆかりの伊勢から、「津」は会津松平ゆかりの会津から来ている。

会津葵

これは、勢津子妃がお輿入れの際に使った道具箱、

徳川家の三つ葉葵の紋と似た「会津葵」の紋が描かれている。

幕末、朝敵となった会津藩・松平容保の孫が皇室へ輿入れすることになり、

”会津人の感激は並みならぬものであった”とウィキペディアに書かれていた。

大河ドラマ「八重の桜」を見ていると、その辺の気持ちが私にもよくわかる。

ロックガーデン

園内には、富士山周辺の絶滅危惧の山野草の種を植えた「ロックガーデン」という庭も作られている。

勢津子妃は、学習院初等科時代に、樺山愛輔伯爵の次女・正子(のちの白洲正子)と同級生で、互いの家を訪ねて親しく付き合った親友だった。

正子の祖父の樺山資紀は、薩摩藩士の家に生まれ、明治維新後には海軍大将を務めている。

正子と勢津子は互いの父親が親しかったことから、夏休みには富士の裾野にあった正子宅の別荘で毎年のように過ごしたと、正子の自伝に書いてある。

更には、後に樺山愛輔は、貞明皇太后から内密の依頼を受け、秩父宮と勢津子妃の婚儀を取り持ったという間柄でもあった。

互いの祖父は、戊辰戦争で互いに敵として戦っていた。

何か、不思議な縁で繋がっていたということだろう。

自然豊かな公園の見学も楽しかったが、名前を聞いたことのある著名な人たちの関係が見えてきたのも、私にはとても興味深かった。
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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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