世田谷に残る「代官屋敷」

世田谷にこんな通りがあった

NHK技研からの帰り道、世田谷通りを三軒茶屋に向かって走っていると、右手に「世田谷代官お膝元」と書かれた通りが見えてきた。

ここは、世田谷区世田谷1丁目、実はこの通りを奥に進んでいくと「代官屋敷」が残っている。

代官屋敷

これが、その建物。

完成したのは、江戸時代中期の宝暦3年(1753)というから、すでに250年以上もたつ。

当時の上層民家の遺構をよく保存する建物として、国の重要文化財に指定されている。

説明

実は江戸時代、この付近の20か村は彦根藩・井伊家が拝領した土地で、この屋敷にはその代官職を務めた大場氏が住んでいた。

白洲跡

屋敷の中には、罪人などの取り調べを行う場所である「白洲」が残っている。

時代劇で見る白洲はもっと細かい砂が敷いてあって、正座してもそれほど痛そうではないが、ここは見るからに痛そうだ。

井伊家が世田谷領として20か村を領有

井伊家が世田谷領20か村を拝領したのは、江戸屋敷の賄料としてで、その石高は2,300石余りだった。

井伊家は彦根に35万石を領有しているから、徳川譜代の名門として手厚く処遇されていたことがわかる。

そして、以前紹介した幕末の大老・井伊直弼の墓所が世田谷区の豪徳寺にあるのも、こうしたつながりがあるからだ。

ボロ市通り

実は、代官屋敷前の通りは、「ボロ市通り」とも呼ばれている。

江戸時代から続く「ボロ市」と呼ばれる市が今日まで続いているのだ。

ボロ市の写真

ボロ市が開かれるのは、12月15日と1月15日の年2回。

江戸の昔には、12月15日の1日だけだったが、太陽暦が使われるようになった明治6年からは1月15日も開かれるようになったそうだ。

この写真は、昭和30年当時のボロ市の賑わい。

以前私は、このあたりで部屋を借りていたことがあり、何回か市の様子を見に行ったが、その時もたくさんの人出で賑わっていた。

ボロ市

この世田谷地区は、江戸以来畑地が大きな面積を占め、蔬菜が盛んに栽培され、大消費地の江戸・東京へと出荷されてきた。

そうした地で開かれたボロ市は年に1回の歳の市だったが、単に正月用品だけでなく、農家が一年に使うあらゆる品物がここで売られていた。

作るのに特殊な技術を必要とする農具から、着物の繕い・わらじの芯などに使う衣類のボロまで様々なものが売られていた。

ボロ市という名前の由来は、そこから来ている。

幸徳秋水の文

後に大逆事件で投獄され、刑死した幸徳秋水は、こんな文章を残している。

今とは違って、物が不足し豊かでない農村の苦しい生活の一端が窺える内容だ。

その後、鉄道網の整備などもあって、都市圏の人口は次第に近郊へと移ってゆく。

そしてこの地域も、次第に農地から郊外住宅地として、その姿を変えてきた。

今では、この地域がかつて農村であったことを伝えるものは、ほとんど姿を消してしまった。

代官屋敷母屋

昔からこの地にあった代官屋敷なのに、今ではこの土地に不釣り合いな印象さえ受ける。

庭では、ちょうど柘榴の花が盛りを迎えようとしていた。

こんな光景が地域の原風景だったのを知らない住民も、今ではかなりの数にのぼるのだろう。
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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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