徳川慶喜~終焉の地と墓所


慶喜終焉の地

文京区春日2丁目の、国際仏教学大学院大学の前の道路に、「徳川慶喜終焉の地」と書かれた案内板が立っている。

私が訪ねた時、1人の男性が熱心に、その案内を読んでいた。

案内板

それによると

「徳川幕府最後の将軍・慶喜は、水戸藩主斉昭の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現、小石川後楽園一帯)で生まれた。

その後、御三卿の一橋家を相続、次いで幕末の動乱のさなか、慶応2年(1866)第十五代将軍となった。

翌慶応3年(1867)に大政奉還し、鳥羽伏見の戦いのあと、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎。

明治維新後は、駿府(静岡)に隠棲した。

明治30年(1897)東京の巣鴨、更に明治34年、誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った」とある。

晩年の慶喜

慶喜がこの地に移り住んだのは64歳の頃。

明治維新後の慶喜は、政治的野心は全く示さず、もっぱら、写真、狩猟、囲碁など趣味に没頭する生活であったという。

ここに移る3年前(明治31年)、慶喜は明治天皇に拝謁。

そして、明治35年には侯爵に叙せられている。

大正2年(1913)、急性肺炎のためこの地で没した。享年76。

徳川歴代将軍の中でも最長命であった。

慶喜墓所

谷中の寛永寺墓地にある、徳川慶喜の墓所。

正面向かって左が慶喜の墓、右に夫人の墓が並んでいる。

慶喜の墓

この墓の形について、ウィキペディアには

「朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。

このため、慶喜の墓は皇族のそれと同じような円墳が建てられた」と書かれている。

近くに似たような墓がある

慶喜公の墓所を訪ねた帰り、すぐ近くに同じような形の墓があったので写真を撮り、名前を見ると「勝 精」とある。

もしかすると、勝海舟の関係者かと思い、家に帰って調べてみると、意外な事実がわかった。

勝 精とは誰?

「従三位伯爵 勝 精(くわし)」とは、勝海舟の死去に伴って勝家の家督を相続した人物だった。

勝海舟とは、勿論、徳川幕府側の窓口として官軍との交渉に当たり、江戸の無血開城に導いた人物としてよく知られた人だ。

が、実は「勝 精」は徳川慶喜の十男であったのだ。

58歳の勝海舟

嫡子である小鹿を亡くした海舟が、慶喜に養子縁組を申し入れ、勝家の跡を継いだのだった。

墓に刻まれた伊代子というのは小鹿の娘、従って孫娘の婿に迎え入れたということになる。

その「勝 精(1888-1932)」という人は、どんな人であったのだろうか。
ウィキペディアによれば、

「写真やビリヤードを嗜むなど多趣味で交友関係も広く、独自に自動ドアを発明するなど華族としては型破りの性格であったという。

当時、発売されたばかりのオートバイ(ハーレーダビッドソン)に興味を持ち、小さな鉄工所を屋敷内に設け、1923年に1000ccの排気量を持つ国産オートバイ「ジャイアント号」を製作させた。

鉄工所のメンバーは後に、目黒製作所(後に川崎重工業に吸収された)を設立したことから、現在のカワサキ車の起源を造った一人とも言われている」

と紹介されている。

昔、「メグロ」という国産のオートバイがあったのを知っているから、「へー、そうだったのか」と思う。

と、同時に、こんな形で親子の墓が並んでいるのも、とても興味深いエピソードだとおもう。
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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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