鈴木春信が描いた江戸美人~笠森お仙


鈴木春信 笠森お仙

江戸中期の人気浮世絵師・鈴木春信の描いた「笠森お仙」の錦絵。

お仙は笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の1人といわれ、茶屋はこの錦絵によって大変なにぎわいだったという。

大円寺

2年ほど前、台東区谷中の寺を巡っていた時、大円寺というお寺で、鈴木春信の碑と、永井荷風がお仙について書いた撰文を彫りこんだ碑を見かけた。

春信の碑 お仙の讃

しかしこの寺に、鈴木春信とお仙の墓はないので、なぜこの寺にそんな碑が建っているのか理由がわからなかった。

ところが、つい最近、中野の寺にお仙の墓があることを知り、調べていくうちに、その理由がわかった。

茶屋のお仙

お仙の茶屋「鍵屋」があったのは、大円寺ではなく、現在の谷中墓地のところにあった感応寺(現在の天王寺)の笠森稲荷の境内または門前だった。

笠森稲荷とは、かさぶた平癒の神様として信仰されたお稲荷さんだが、大円寺でも笠森稲荷を合祀していることから、ここに碑が建てられたのだとウィキペディアに書かれていた。

笠森稲荷

これは大円寺の本堂の前で見かけた提灯。

「瘡守薬王菩薩(かさもりやくおうぼさつ)」と書かれている。

かさぶたの平癒を願って、昔からこの寺でも信仰を集めてきたきたことがわかる。

そんな経緯で、ここに碑が建てられたのだった。

荷風の撰文

これは、永井荷風が文を書いたお仙の碑。

そして、笠森お仙(1751-1827・文政10)は、錦絵が書かれてから間もなく茶屋から忽然と姿を消してしまう。

それは、お仙が19歳の頃のことだった。

朝日日本歴史人物事典には「店には父親五兵衛がいるだけとなったので、失望した男たちの間に『とんだ茶釜が薬罐に化けた』という言葉が流行した」とのエピソードが記されている。

お仙が忽然と姿を消したわけ、それはお仙の墓に行ってみて分かった。

お仙の墓

中野区上高田の正見寺にある「お仙」の墓。

墓石の向かって左側に、お仙の戒名と没年である「文政十年正月」という字が、うっすらと読みとれる。

実は
「お仙は笠森稲荷の祭主でお庭番(幕府の隠密)の倉地政之助と結婚し、外界と遮断された桜田の御用屋敷に住み、幸せな生涯を送った」(朝日日本歴史人物事典)というのだ。

墓誌

古い墓石のそばに、今日まで続く子孫の方が建てた新しい墓石があり、その横に墓誌が刻まれていた。

そこには、こんなことが記されていた。

(倉地家は)「徳川家康の父・弘忠の時より徳川家に仕え、のち紀州徳川家に仕える。

八代将軍吉宗に随伴して江戸に来て以来、代々江戸城の御庭番として活躍(御休息御庭之者支配という役職)、金奉行、林奉行、吹上奉行格まで昇進し、十六代家達公まで寄与した家系である」

御庭番は、奥向きの警備を表向きの職務としていたが、将軍から直接の命令を受けて諜報活動も行ったという。

金奉行(かねぶぎょう)とは、幕府金庫の出納経理の役目。

吹上奉行とは、江戸城・吹上御苑の花壇などの手入れの指揮を職務としていたとのことだ。

お寺の入り口にあった中野区教育委員会の説明には、

お仙は9人の子供を育て、70代半ばまで生きたということが書いてあった。


「美人薄命」ではなかったのだ。

しかも、子宝にも恵まれた。

「笠森稲荷」の祭神にでもなれそうな、幸せな一生だったようだ。
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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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