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木曽義仲と芭蕉

車窓から見た倶利伽羅峠

JR北陸線の富山・石川県境にある倶利伽羅峠。

春は八重桜を見に、秋は紅葉を訪ねて何回か通った所で、車窓から峠を懐かしく確認した。

芭蕉は「奥の細道」で

”卯の花山 倶利伽羅が谷を越えて 金沢は七月(ふみつき)中の五日なり。・・・”と記している。
(卯の花山、倶利伽羅峠を越えて金沢に入ったのは、旧暦の7月15日のことだ)

しかしここでは、芭蕉が心を寄せる「木曽義仲」が、平家の大軍を破った源平の古戦場であることには触れてはいない。

源平トンネル

峠にある「源平トンネル」には、義仲軍が夜中、牛の角に松明をつけ平家の陣に突進させたという「火牛の計」の故事に因んだ絵が描かれている。

ここでの合戦で義仲は平家の大軍を破り、いとこの源頼朝に先んじて京に入り、都の治安などを担当することになる。

いわば、ここは、木曽義仲が源氏のスター武将として歴史に登場してくる舞台でもあったのだ。

手塚太郎光盛の屋敷跡

そしてこれは、加賀温泉郷マラソンを走っていて偶然見かけた「手塚屋敷跡」と書かれた案内柱。

前回のブログでも紹介したが、もう一度紹介すると、

ここは、義仲軍が、敗走する平氏の軍と戦った古戦場の近くで、「義仲方の有力武将であった手塚太郎光盛の子孫が住んでいたと伝えられる」と書かれている。

手塚太郎光盛は、その合戦の際、平家物語などで知られる「斎藤実盛」を討ち取った人物だ。

斎藤実盛は、白髪を黒く染めて合戦に臨んだ老将として知られ、

芭蕉が、実盛の故事を念頭に「むざんやな 甲(かぶと)のしたの きりぎりす」という有名な句を詠んだ多太(ただ)神社も、この場所から遠くない。

斎藤実盛とはいったいどんな人物だったのか、ウィキペディアなどを参考に簡単にまとめてみる。

実盛は、はじめ源頼朝の父である源義朝方の武将であったが、のちに義朝の異母弟・源義賢(よしかた・木曽義仲の父)の配下に入るようになる。

だが義賢が義朝との争いで討たれ、実盛は再び義朝の麾下に戻ることになる。

そして、義賢の遺児・駒王丸(のちの義仲)に殺害の命が出された際、

実盛らは義賢への旧恩を忘れず、駒王丸を木曽の豪族のもとに送り届けた。

いわば、実盛は、義仲の命の恩人であった。


その後、義朝は平家との戦いに敗れたため、実盛は東国に落ち延び、そこで平氏に仕えるようになる。

実盛は、頼朝の挙兵後も平氏方にとどまり、源氏の木曽義仲を追討のため北陸に出陣する。

つまり、義仲にとっては命の恩人だった実盛が、敵・平家方の武将として戦いの場にいたということになる。

実盛は、白髪を黒く染めて戦場に臨み、ここ加賀国・篠原で

義仲の武将・手塚光盛によって討ち取られたのだった。

実盛の兜

木曽義仲は、首実検の場で斎藤実盛と対面する。

しかし一目見ただけでは実盛とわからなかった。

義仲が首を付近の池で洗わせたところ、みるみる白髪に変わり実盛であることがわかる。

かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。

小松 多太神社

石川県小松市の旧北国街道沿いにある「多太(ただ)神社」。

義仲が、実盛の兜などを奉納し、今も社宝として伝えられている。

奥の細道の記述

それから500年後、芭蕉は奥の細道の旅でここを訪れる。

そして

「むざんやな 甲のしたの きりぎりす」 

という有名な句を残した。

義仲は北陸での戦いのあと京に入り、平氏に代わって都の治安などにあたるが、兵による乱暴狼藉、更に皇位継承に口をはさむなどして朝廷から疎まれ、従兄弟である頼朝配下の軍によって討たれてしまう。

義仲

芭蕉は、そんな義仲のどこに惹かれたのか。

実盛を手厚く弔った義仲の、恩を忘れぬ心情に感じるものがあったのだろう。

そして、都から遠い地で生まれ育ったことへの同情もあったような気がする。

「眉目形はきよげにて美男なりけれども、堅固の田舎人にて、あさましく頑なにおかしかりけり」
(『源平盛衰記』)

と、義仲は、美男に生まれながら、教養のない粗野な人物として都の人からも疎まれてしまう。

伊賀上野という地方の町で生まれ育った芭蕉は、そんな義仲の境遇に同感することができたのではないだろうか。

むすびの地に立つ芭蕉像

芭蕉はこの後、福井、敦賀を経て「奥の細道」結びの地である大垣に至る。

大垣は、ごく早い時期に蕉風俳諧が花開いた地で、多くの門人たちがいた地であった。

水門川

芭蕉は、大垣城の掘割の一部にも使われた「水門川」から船で、伊勢へと旅立ち、「奥の細道」の旅を終える。

「蛤の ふたみにわかれ 行(く)秋ぞ」

義仲寺

ここは、琵琶湖畔大津市にある義仲寺。

義仲を葬った塚があるところから、その名がある。

芭蕉は、「奥の細道」の旅を終えたその年(1689・元禄2)の12月、義仲寺にあった草庵を訪ね、越年している。

この他にも、生前、何度も境内の草庵を訪ねている。

よほど義仲に惹かれるものがあったのだろう。

芭蕉は、奥の細道から5年後の元禄7年(1694)、旅の途中の大阪で亡くなるが、死を前に門人に「自分を義仲寺に葬るよう」伝えたのだった。

月曜は休み

長い間訪ねたかった、その「義仲寺」の門前にようやくたどり着いた。

その日はマラソン翌日の月曜日。

まだ足に痛みと疲れが多少残っていたが、そんなことは忘れていた。

ところが、

ところが、こんな非情な張り紙が目に入った。

なんと「休日 毎週月曜日」。

一昔前の役所の文化施設みたいではないか。

心から、がっかりしてしまった。

今、私の近所の図書館は休日なしで、利用できるようになっている。

「こんな国民的な名所なのだから、図書館に負けないでほしい」

そうは思っても、門は開くことなく、芭蕉の墓を拝観することはかなわなかった。

いつか、また機会を見て訪ねたいとは思うが、はかない夢に終わってしまうかもしれない。


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み組のかった(歌舞伎等で知られる火消しの「め組」は隣組。ともに氏神は芝・神明さんです)

Author:み組のかった(歌舞伎等で知られる火消しの「め組」は隣組。ともに氏神は芝・神明さんです)
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在は、ひざが許す限りのんびりと走りながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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