阿寒湖 土地を財団に寄付した前田家の物語

阿寒湖ロング
北海道の観光地、阿寒湖。まりもの生息地として知られる。
昭和9年に国立公園に指定された。

冬は結氷
冬は全面的に結氷するが、ワカサギ釣りの人たちが訪れ、一年を通して観光客でにぎわう。

湖面の氷が解けるのは4月末の大型連休の頃。

湖畔のアイヌコタンも、観光スポットとしてよく知られる。

実は、阿寒湖周辺の土地は「前田一歩園」という財団が管理している。前田家は地元ではよく知られた存在で、阿寒湖の自然保護を語る上では欠かせない。

以下は前田一歩園のHPによる。

幕末の1850年、薩摩藩・指宿の漢方医の家に生まれた前田正名は、若くしてフランスに留学。

欧州の草木、果物、蔬菜類の種苗をもって帰国し、三田の薩摩藩・種苗所長として迎えられる。(注、「世界大百科事典」などには「三田育種場」と紹介されていて、それによると三田育種場が設立されたのは明治10年、明治政府になってからだから、「三田の旧薩摩藩屋敷跡に作られた種苗などを目的とした育種場」とする方がいいと思われる)

その後、山形有朋内閣の農商務次官になったが陸奥宗光大臣と意見が合わず職を辞し、各地で殖産事業に取り組んだ。

明治21年、山梨県知事を務めていた時、甲州ブドウの栽培を奨励したという記録もある。

前田正名

また、釧路に前田製紙工場(現在の日本製紙の前身)を起こし、1903年(明治36年)には、阿寒の山林5千ヘクタールの払い下げを受けた。

当初は紙パルプの原木の確保や牧場などを開くのが目的だった。


しかし、「スイスに勝るとも劣らない景色だから、切る山ではない。見る山だ」として、山林の無計画な伐採をやめる。

そして、「前田家の財産はすべて公共事業の財源となす」との家憲を残し、1921年(大正10年)に亡くなった。

その遺志を継いだのが、子息の正次氏とその妻光子さん。

特に光子さんは元タカラジェンヌで「阿寒の母」と呼ばれ、夫の亡き後、前田一歩園を財団化するのに大きな役割を果たした。

私が釧路にいたころはまだ健在で、よくお名前は耳にした。

財団設立趣意書には、こう書かれている。
「いつも思うことは、自然保護という人間の思い上がりです。自然の保護を受けていることが真の自然保護であり、私たちの生命の糧とわきまえて、いかにこの大切なものを永存すべきかを深く考えるところであります」

そして光子さんは、「アイヌ民族は素晴らしい芸術的才能を持っているのだから、木彫をして生活を開きなさい。作業場や店は、私の土地を提供します」として、アイヌコタンの基礎を作ったひとでもある。

財団は湖畔の土地の一部をホテルや売店などに貸し付け、その収益をもとに森林保全や自然保護思想の普及に努めているが、アイヌコタンや、湖畔キャンプ場などは無償の貸与地となっている。

財団が設立されたのは1983年(昭和58年)4月、認可されてから18日後に、光子さんは71歳の生涯を閉じた。

以上が前田一歩園の急ぎ足での紹介だが、その祖ともいえる前田正名の墓が、私の家のすぐそばにあったのだ。

妙生院

「妙定院」。港区芝公園、増上寺のすぐ近くにある。

説明板によると徳川9代将軍・家重の菩提のために開創されたとある。由緒ある寺院だ。

墓碑銘

墓石の横には明治の殖産興業の先覚者とあるが、事蹟をもっと詳しく紹介してもいい人物ではないかと思う。

タワーが見える

墓からは東京タワーが望める。

三田の薩摩藩邸跡に作られた種苗所の場所もここから遠くないから、前田正名にとって、きっと縁のある場所なのだろう。

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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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