佃島~島の名残り


やっと、加賀温泉郷マラソンから帰ってきた。

数えきれないほど沢山写真を撮ってきたものの、23日の夜遅くに帰宅したので、今度の旅の写真整理が、まだできない。

そこで、今回は出かける前にまとめたものを、紹介したい。
どうぞ、お許しを。

明治10年の佃島

さて、これは
明治10年に佃島を描いた地図。

隅田川の中州を埋め立てて造った陸地であることが、よくわかる。

画面右側の島は石川島。

石川島播磨造船の前身の造船所があった。

江戸時代には鬼平犯科帳のモデルでもある長谷川平蔵の進言によって、軽犯罪者などの社会復帰を目的にした「人足寄場」が作られた場所でもある。

スカイツリーから

そのわずかに埋め立てられた土地も、現在は大変な広さを持つ地域へと変わった。

写真の中央大橋と書いてあるところが石川島の造船所があった所。

佃大橋の左側あたりが、古地図で佃島と記された所だ。

これは、スカイツリーから撮影した写真だが、高層ビルの林立で、地面は全く見ることができない。

埋め立て地は、その後どんどん広がり、月島、勝鬨、晴海と呼ばれる新しい地域が生まれ、風景は驚くほど変貌している。

高層ビルの裏側は

林立する高層ビルの裏側から、写真を撮ってみた。

まだ、江戸の昔を思い出させる風景が、残っていた。

この水路は、埋め立て当初、佃島の周囲にあった水路の一部が今に残っているものだ。

もう一度、地図を見てみよう。

水路の行き止まり

埋め立てと開発が進み、島の周囲にあった水路も、今は撮影場所の所で埋め立てられてしまった。

画面中央付近の赤いところは「住吉神社」、現在も同じ場所に社を構えている。

天台地蔵尊

この水路の右側(南側)の通りを歩いていると、「佃天台不動尊」と書かれた木製の案内が見えた。

入り口は、とても狭い。

そこに興味をひかれて、中に入ってみた。

1人でも窮屈

1人で、通路はいっぱいという感じ。

はたして、この先に本当に地蔵尊があるのかどうか、興味津々だ。

御堂全景

すると、あった。

間口は1間ほど、1.8mくらいだろうか。

しかも、右半分は大きなイチョウの大木が占め、お参りする場所はその先にあった。

本尊のまわりにはきれいな花が飾られ、地域の人たちが大事にされている様子がうかがえる。

地蔵尊縁起によれば、江戸の昔から、多くの人々に信仰され、今日に至っていると書かれている。

江戸の頃の佃島の暮らしの一端が見えてきそうだ。

この細い路地も、きっと昔のままなのだろう。

反対側入り口

路地を抜けて、反対側の道路に出た。

こちらでは一応、入口らしい体裁は整っていた。

釣り船が

佃島に残る水路には、釣り船が係留されていた。

佃島漁業組合も、まだ存続しているようだ。

まだ、周りの海や川で暮らしを立てている人がいる。

家康に従って、大阪から江戸にやってきた漁民たちによって作られた島・佃島。

古くから埋め立てられた一角に、昔の思わせる面影が、今もわずかながら残っていた。




スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
スポンサードリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR