長谷寺で眠る人たち(2)野呂栄太郎


野呂栄太郎

港区・西麻布の長谷寺に眠る人たち、今回紹介するのは野呂栄太郎。

普通のお墓が並ぶ中で、この墓はよく目立った。顔を描いたレリーフが墓石に飾られていた。

近くに寄ってみると、野呂栄太郎と書いてある。

たまたま大学時代、卒論を書く際に野呂栄太郎の著書「日本資本主義発達史」を読んでいた。

あの野呂栄太郎がここに眠っていたのか、そんな思いだった。

顔

野呂栄太郎は、戦前の思想弾圧の中に生きた悲劇の人といってもいいだろう。

野呂栄太郎(1900~1934)の人生は、ウィキペディアにはこのように紹介されている。

”日本の在野のマルクス経済学者で、戦前の非合法政党時代の日本共産党の理論的指導者の一人であるとともに、幹部(委員長)として党を指導するなど、実践活動にも関わった。

北海道長沼町に生まれ育ち、旧制北海中学(現北海高等学校)から慶應義塾大学理財科(現在の経済学部)に進む。

1926年(大正15年)、卒業論文として『日本資本主義発達史』を執筆。慶應大学の助手採用試験・朝日新聞社を受けるも、不採用となる。

1930年(昭和5年)1月、日本共産党に入党。

11月28日、スパイの手引きで検挙され、1934年(昭和9年)2月19日に、品川警察署での拷問により病状が悪化し、北品川病院に移された後絶命した。”

33年余りの短い人生だった。

墓碑銘

墓石には、こんな文句が刻まれている。

マルクス経済学の立場から、持たざる者でも人間らしい暮らしができる社会を目指した人生だったといえるだろう。

野呂栄太郎は、慶応で学んでいた当時、マルクス経済学批判の最先鋒・小泉信三の講義も受けていた。

小泉信三

「野呂はマルクスの価値論を批判した小泉信三教授に授業中に反論し、論争を交わした。

これによって小泉は野呂の才能を認め、研究の便宜を与えたというエピソードがある」

とウィキペディアに紹介されている。

小泉信三は、慶応の塾長も務めたほか、昭和24年には今上天皇の教育掛に就任、帝王学を説いた人物でもある。

「思想信条は異なっていても、相手の才能を認め敬意を払う」
なかなかいい話だと思う。

小泉信三は戦争中、焼夷弾で顔に大やけどを負った。

また、子息の小泉信吉を戦争で失い、子息との思い出を綴った「海軍主計大尉 小泉信吉」を著し、私家版として関係者に配り、没後に公刊されている。

この本は、親と子が「互いを思いやる心」にあふれた感動的な内容で、一時ベストセラーにもなった。

私がこれまで読んだ中でも、強く心に残るものの一つだ。

読まれていない方には、是非一読をお勧めしたい。

共に眠る

墓石には

野呂栄太郎 1900.4.30~1934.2.19  の下に、

美榮子   1934.7.29~1939.3.26 と書かれている。

野呂が亡くなってから5か月後に生まれた娘の名前だ。

5歳になる前に亡くなっているのが悲しい。

ウィキペディアにはこんな情報も載っていた。

野呂の「実妹・美喜は日本社会党衆議院議員だった横路節雄夫人。

その息子の横路孝弘は、民主党政権時代に衆議院議長を務めていた」

つまり横路孝弘氏は、野呂栄太郎の甥にあたるということだ。

はじめて聞く話だった。

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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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