春の名残をいかんとやせむ~浅野内匠頭を走る


辞世

ソメイヨシノの開花を受けて、浅野内匠頭の辞世を思い出し、ゆかりの地を走ることにした。


”風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残をいかんとやせむ”

「風に誘われて散る花、その花よりも春の名残が惜しい私。その思いを一体どうしたらいいというのだ」

浅野内匠頭長矩が、江戸城松の廊下で吉良上野介義央に切り付けるという刃傷事件を起こしたのは、元禄14年(1701)3月14日。

現在の暦に直すと4月21日なので、どちらかといえば桜の時期は過ぎている。

しかし新庄節には「花が咲いたと都の便り、こちら雪じゃと返す文」という文句もあるし、弘前の桜は普通は大型連休の時期だから、よしとしよう。

明石町

ここは中央区明石町の聖路加看護大学校の一角。隅田川右岸から、それほど遠くはない。

碑には「浅野内匠頭邸跡」と記されている。

浅野家の上屋敷があった場所だ。

案内板

播磨赤穂藩・浅野家の屋敷は現在の聖路加国際病院を含め隅田川まで続く土地にあり、その広さは8900坪余りあったという。

そして、この碑のすぐ右手には、こんな案内板も建っていた。

芥川の生誕地でもある

ここは、芥川龍之介が生まれた場所でもあるというのだ。

それによると
「明治16年ころ、この付近に『耕牧舎』という乳牛の牧場があり、作家・芥川龍之介(1892-1927)は明治25年3月1日、その経営者 新原敏三の長男としてここに生まれた。

龍之介は誕生後7か月にして、家庭の事情から母の長兄・芥川道章に引き取られて、本所區小泉町(現 墨田区両国3丁目)に移り、芥川家の養子となる。

東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り
『地獄変』『羅生門』『河童』『或阿呆の一生』など多くの名作を残したが、昭和2年35歳で自害している」と紹介されている。

明石町

かつて、ここに大名屋敷や牧場があったことは、今では全くうかがい知ることはできない。

次に、浅野内匠頭が切腹した田村右京太夫の屋敷のあった場所に向かった。

日比谷通りの終焉の地

ここは、港区新橋4丁目。

前の通りは日比谷通りだ。

環状2号線の建設工事で、一時、切腹の場所を知らせる碑が撤去されていたが、先日新しくなった碑が以前と同じ場所に建てられていた。

そして碑のそばには、まだ若い桜の木が植えられている。

古い碑のそばにも桜が植えられていて、この付近では一番早く花をつける桜だった。

今度新しく植えられた桜も、前の桜と同じように早咲きで、もう7分程度の花を開いていた。

日比谷通り沿い

先日、30歳くらいの男性と話をしていて「浅野内匠頭」を知っているかどうか尋ねたら「知らない」という答えだった。

昔は、忠臣蔵といえば「日本人なら誰でも知っている物語」と言っても過言ではなかった。

しかし時代も少しずつ変わり、今では、昔の話になりつつあるようだ。

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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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