椿山荘の近くの「芭蕉庵」


江戸川公園

文京区にある江戸川橋公園。

地下鉄有楽町線の江戸川橋駅のすぐ近くにある。

神田川

公園の横を流れる「神田川」。

流れは、両国橋のところで隅田川に合流する。

昔は、神田川のこの付近を「江戸川」と呼んでいたので「江戸川橋」の地名が残っている。(東京都と千葉県との境を流れる江戸川とは別の川だ)

川に沿って遊歩道があり、シーズンを問わずジョギングには絶好のコースだ。

江戸時代は、井の頭池から流れ出る神田川の水を上水道として利用してきたので、付近には水道関係の旧跡がいくつか残っている。

川の下流、後楽園球場の近くに「水道橋駅」があるが、神田用水の水道橋があったことに因む地名だ。

以前、早稲田から都電荒川線に沿って走っていた時、この遊歩道を走り、途中に「松尾芭蕉」ゆかりの庵と出会ったことがあった。

その時は、庵の門が閉まっていたので素通りしてしまったが、いつか訪ねてみたいと思っていた。

今回、その庵を訪ねることにして走って行った。

関口芭蕉庵

これが芭蕉ゆかりの「関口芭蕉庵」の門だ。
関口とは、このあたりの地名。

「椿山荘」のすぐ隣りにあたる。

門は、前回通った時も閉まっていたが、この日も閉まっていた。

入り口を探すと、門の左横・胸突坂の登り口にあった。

胸突坂から入る

戸が開いていて、誰でも自由に入ることができる。

講談社、キングレコードなどにより設立された保存会によって管理されているとのことだ。

門の前に建つ説明屋ウィキペディアには、こんなふうに紹介されている。

芭蕉は延宝5年(1677)から8年(1679)まで、旧主筋の藤堂家が行っていた神田上水の改修工事に携わり、このあたりにあった庵に住んでいたと伝えられる。

後に世人はそれを「関口芭蕉庵」と呼んだ。

芭蕉堂

中は、かなりの広さがある。

享保11年(1726)、芭蕉の33回忌に芭蕉の木造を祀る芭蕉堂が建てられた。

堂には、その後芭蕉の弟子である去来、其角、嵐雪、丈草の像も堂に安置されたという。

しかし、芭蕉庵の建物は昭和13年に近火の類焼で焼失。

再建された後も昭和20年5月の戦災で焼失し、現在の建物は戦後建てられたものだ。

五月雨塚

とはいえ、ここには、かつての芭蕉庵の様子を偲ばせる石碑や自然豊かな庭が残っている。

これは寛延3年(1750)、宗端、馬光らの俳人が芭蕉の真筆の短冊を埋めて墓としたものだ。

芭蕉の墓は本人の遺言によって、琵琶湖の湖畔にある義仲寺にある。(芭蕉は、木曽義仲に強く惹かれるものがあったようだ)

芭蕉は、早稲田の田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したといわれ、真筆の短冊に書かれていた句は

『五月雨に かくれぬものや 瀬田の橋』

現在、早稲田大学があるところ一体は、江戸の中期には、田んぼが広がるところだったことがわかる。

”五月雨に琵琶湖のすべてが霞んで見える中、瀬田の橋の見事な姿は隠れることはない”とでもいう意味だろう。

自然豊かな池

関口芭蕉庵の中には池があり、池の周辺は「江戸時代には、さもありなん」と思わせる豊かな自然が残っていた。

あの有名な句は、こんな場所で詠んだのではと思わせる雰囲気だ。

古池や 句碑

すると、やはりあった。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句碑だ。

近くに「芭蕉翁 二百八十回忌にこれを建つ 文字は真筆」との説明があった。

昭和48年に建てたものだ。

芭蕉像

これは、蕪村が描いた芭蕉像。

「古池や」の句は、芭蕉がこの関口芭蕉庵から移った「深川」の地で生まれた句といわれているが、深川・万年橋の近くにある「深川芭蕉庵跡」の近くに現在、池はない。

この池を見ているうちに、私は、こんな場所で芭蕉は池に飛び込む蛙の姿を見たのではないかと思った。

そんなことを思わせるほど、都心には珍しい素朴な自然が残っていた。
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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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