大川端の相撲部屋


隅田川

この日の目的地は、隅田川沿いにある相撲部屋。

先日亡くなった大鵬さんゆかりの部屋を訪ねてみることにした。

隅田川の左岸を北上、清洲橋で河畔を離れ、江東区の方に向かう。画面の右手の方だ。

北の湖部屋

すると、川にほど近いところに、「北の湖部屋」という看板を掲げた4階建て建物がある。

元横綱・北の湖さんが立ち上げた部屋だ。

建物の前には、お相撲さんが使う自転車が、ずらりと並んでいる。

大きな体のお相撲さんが乗っている姿が取れれば面白いのだが、本場所が開かれている日の午後の時間のこと。

あたりに人の気配はなかった。

大嶽部屋 大鵬道場

「北の湖部屋」と指呼の間に、7階建ての新築マンションのように見える建物が見える。

これが「大鵬部屋」を引き継いだ「大嶽部屋」の建物だ。

入り口の前には、マスコミ関係者とみられる数人の人たちが、脚立に腰かけたりしてスタンバっていた。

弔問の人の取材なのだろうか。

記帳の人が

玄関の上には「大鵬道場」と書かれた看板があった。

そして、その下には弔問の記帳の場所が設けられていて、若い男性が記帳していた。

大鵬が横綱に昇進したのは昭和36年、柏戸と同時昇進で21歳の時だった。

「大鵬の柔、柏戸の剛」と対照的だったが、共通するのは「二人とも見事な男ぶり」であること。
絵にかいたような見事な横綱だった。

当時、私は中学生。

どちらかというと、大鵬に分の悪かった柏戸を判官びいきで応援していた。

大鵬が嫌いだったのではなく、強すぎて応援のし甲斐がなかったからだった。

大鵬は、相撲の天才と呼ばれるのを嫌い、「強くなれたのは努力したから」とよく語っていた。

それは、子供の頃に母子家庭で経済的に苦労したことと、無関係ではないだろう。

大鵬が全盛の頃、「幸喜」と名付けられた男の子が多かったという。

現在劇作家として活躍しているの三谷幸喜も、その一人だとウィキペディアに書いてあった。

錣山部屋

大鵬道場から東へ、ごく近いところに「錣山(しころやま)部屋」の建物があった。

親方は、現役時代は「寺尾」のしこ名で活躍。
鶴ヶ峰の息子で二枚目力士としても知られたあの人だ。

こうしてみると、それぞれの部屋は大きなビルで、とてもモダンだ。

外から見る限り、相撲部屋のイメージはあまりない。

こうした中から、果たして「ハングリー精神」が育まれるものなのか、ふと考えてしまう。

国技館

この3つの相撲部屋から、およそ1キロほど離れた「両国国技館」。

1月場所が開かれ、外国人を含め多くの観客で賑わっていた。

1月場所ポスター

「大鵬」が亡くなったのは、1月19日。

そして今日、相撲とは直接関係はないが、スポーツアナとして鳴らした鈴木文弥さんが、その翌日・20日に亡くなったという報道が伝えられた。

昭和39年の東京オリンピック、バレーボールの女子決勝の放送の実況を担当。

いわゆる「東洋の魔女」が金メダルに輝いた試合だ。

「いよいよ金メダルポイントであります」という、あの文句は今も耳の底に残っている。

こうして、スポーツの世界で一時代を築いた人たちが、この世を旅立って行かれた。

誠に寂しい限りだ。

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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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