ラグーザ玉の菩提寺を訪ねた


今回は、先日訪ねた「ラグーザ玉女史」の菩提寺を紹介したい。

長玄寺

港区元麻布3丁目にある浄土真宗「長玄寺」。

日本の女流洋画家第一号の「ラグーザ玉」の菩提寺だ。

寺に入ってすぐ左に、「ラグーザ玉」を顕彰する碑が建っている。

日本の婦人像

これは以前紹介した「日本の婦人像」と題した彫像。
この彫刻は、東京国立博物館に展示してある。
(http://golby.blog.fc2.com/blog-date-20110925.html)

モデルになっているのがラグーザ玉(1861-1939)で、作者はイタリア出身の彫刻家ヴィンセンツォ・ラグーザ(1841-1927)、玉と結婚した人物だ。

ヴィンツェンツオ・ラグーザ

ヴィンセンツォ・ラグーザは明治9年(1876)、日本最初の美術教育機関である「工部美術学校」の彫刻科の教授として招かれ、明治15年(1882)、彫刻家が廃止されるまで日本に滞在。

官舎は現在の港区三田1丁目(昔の小山町)にあり、明治10年(1877)散歩の途中、玉の生まれた清原家の美しい庭に魅せられ立ち寄った。

清原家は、増上寺の管理人をしていて、家は芝新堀(今の芝2丁目)にあり、玉は清原家の2女。

玉は、小さいころから絵を学び絵の好きな少女だった。

二人が出会ったのは、ヴィンセンツォ・ラグーザ36歳、玉は16歳のときだった。

以来ヴィンセンツォは玉に西洋画の技法を教えたり、彫刻のモデルにしたりするようになる。

この後は墓碑銘に刻まれた内容から、彼女の人生を紹介しよう。

墓碑銘

ラグーザ玉女史

文久元年 江戸芝新堀ノ清原家ニ生シ 幼日ヨリ畫(画の旧字、以降この「画」という字に統一して紹介する)ヲ好ム 

偶々 伊太利彫塑家 ヴィンチェンツオ・ラグーザニ洋画ヲ学ビ

明治十五年ソノ郷里パレルモニ伴ワル 後 同市新設ノ高等美術工芸学校副校長ニ任ゼラレ

ラグーザ校長ヲ補佐ス

(工部美術学校・彫刻科は開設以来丸6年の1882年・明治15年に廃止され、ヴィンチェンツオ・ラグーザは故郷のイタリア・シチリア島のパレルモに帰郷。
その時、玉はヴィンチェンツオと共にイタリアへ渡る。時に玉21歳)

同二十二年 結婚 エレオノーラ・ラグーザ ト名乗ル

(結婚した時、玉は28歳。
イタリアで行われた結婚式の時、親代わりになってくれたのがスカレアという侯爵夫人だった。

彼女は、玉がイタリアに着く前の年に亡くなった自分の娘・エレオノラの名をつけてくれた)

春

画名 欧米ニ洽(あまね)シ 昭和三年夫君逝ク 

同8年 半世紀余ノ滞伊生活ニ別離シ 居所昔ナガラノ清原家ニ還ル

作品

女史 非凡ノ画才ハ南欧ノ絢爛優婉ナル色調 日本人特有ノ構図ノ妙 典雅ノ筆致ヲ併セ 

東西融合ノ独自ノ境ヲ開ク

玉の顔

昭和十四年四月五日 突如昏睡 翌六日早晨 七十九歳ヲ以テ逝ク 時ニ枕頭ノ水彩顔料 太ダ水ヲ含ミテ残ル

嗚呼 女史ハ絵画ノ化身ナリキ

昭和十四年十一月建
玉光会

ラグーザ玉をモデルにした彫像は、パレルモ近代美術館にも展示されているという。

また、ネットで調べていたら、以前「なんでも鑑定団」に油彩の小品が鑑定に出された映像があって、かなりの評価を得ていた。

ラグーザ玉は、日本に帰ってからも絵を描いており、故郷芝に住む人の中にも、作品を所蔵する人が少なからずいる。

江戸末期に生まれて戦前の昭和まで、まだまだ男中心の世の中にあって女性として活躍した数少ない人物の一人といったいいであろうラグーザお玉。


郷土の歴史を語る上で、是非覚えておきたい人物の一人だ。
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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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