お墓の隣組~茂吉と大久保


青山霊園

港区の青山霊園。

青山の地名は、江戸時代、美濃郡上八幡・青山氏の屋敷があった所から来ている。

広大な墓地には、私たちが教科書でその名を習った多くの有名人の墓がある。

ジョギングしながら、墓所を訪ねると、意外な人が墓所の隣組で、興味深く感じることがある。

今回は、そのうちの一つを紹介したい。

大久保利通神道碑

これは維新三傑の一人・大久保利通の墓所の手前にある「大久保公神道碑」。

この部分には「贈右大臣従一位大久保公神道碑」と記されている。

神道碑とは、墓所の参道に建てる頌徳碑で、この碑には、5センチ角の楷書文字が合わせて2919文字、記されている。

我が国最大の楷書碑であり、傑作のひとつという。

墓所

神道碑の左隣が墓所になっている。

立派な墓の多い青山霊園の中でも、広くてひときわ目立つ。

大久保利通

大久保は維新三傑(木戸孝允、西郷隆盛)の一人で、明治維新を実現するに大きな力となった人物。

ウィキペディアによれば、大久保は

「明治維新後、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行った。

明治六年、朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、西郷らを失脚させる。

その後、初代内務卿として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施し、『富国強兵』をスローガンとして、殖産興業政策を推進した」

とあるから、いわば明治新政府のトップにのぼりつめた存在だったが、明治11年(1878)に暗殺されてしまう。
満47歳の若さだった。

説明

墓所の手前には、東京都教育委員会による、このような説明板が立っていた。

墓所遠景

そして、先ほどの墓所手前にある神道碑を、少し離れた場所から撮ったのがこの写真。

写真右手、端っこに小さな墓石が見える。

大久保公の墓所からの帰り際、何気なく墓石の字を見ると、

茂吉之墓

「茂吉之墓」とある。

姓がなく、単に「茂吉」としか書いてないが、それだけでわかる茂吉とは「斎藤茂吉」以外にはないと思った。

墓誌

墓所の右隅に石板に記された墓誌があった。

すると、思った通り「斎藤茂吉」とあった。

夫人である「斎藤輝子」、長男で精神科医、随筆家としても知られた「斎藤茂太」の名前もあった。

茂吉、文化勲章

斎藤 茂吉(1882年・明治15年 - 1953年・昭和28年)は、日本の歌人、精神科医。

昭和26年には文化勲章を受章している。

現在の山形県上山に生まれた茂吉は、戦中から戦後にかけて故郷に疎開、

芭蕉が奥の細道で名句を残した最上川沿いの大石田で、茂吉も有名な歌を残した。

芭蕉の句は「五月雨をあつめて早し最上川」。季節は今の暦で7月中旬だ。

茂吉の歌は、

「最上川 逆白波のたつまでに ふぶくゆふべとなりにけるかも」(昭和21年)

季節は冬。
外は、北からの季節風が激しく吹きつけている。

北に向かって流れる大河・最上川の川面には、流れに逆らうように白波が立っていることだろう。

山形で4年間暮らしていた間にこの歌を知った。この歌に触れると、山形の冬を思い出す。

逆白波(さかしらなみ)という言葉は、茂吉の造語であるときいた。

斎藤家の墓

青山霊園で茂吉の墓に出会った時、「あの茂吉が、ここに眠っていた」という印象だった。

そして、明治維新の大久保公の隣りに眠るとは、いったいどんな縁なのかとも思った。

茂吉の二男の北杜夫(1927-2011)も、精神科医、作家として知られる。

「楡家の人々」などの多くの作品を残しているが、去年(2011)10月24日に亡くなっている。

墓誌に、彼の名前(本名 斎藤宗吉)という名前はなかった。






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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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