泉岳寺から本所松坂町へ①


墓所へ

12月14日は、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日。
(新暦だと翌年・1703年1月30日とか)

例年この日に、泉岳寺では「義士祭」が行われている。

今年の人出はどうだろうか、赤穂浪士の国民的な人気に変わりがあるのか、ないのか、
それを確かめに、泉岳寺まで走った。

そして、そのあとは討ち入りとは逆に、本所松坂町の吉良邸まで走ってみることにした。

途中、沿道でどんな忠臣蔵のシーンと出会うのか、楽しみに走った。

ここは、泉岳寺の赤穂浪士と浅野内匠頭、瑤泉院の墓所に向かう道。

今年もたくさんの人たちがお参りに来ていた。

線香の煙

墓所の中は線香の煙で、白くなっている。

ここには討ち入りに参加した四十七士と、親との板挟みで自死を選んだ萱野三平の、合わせて四十八の墓がある。(詳しくは2011年11月12日のブログ「赤穂浪士の墓所に48の墓がある」
http://golby.blog.fc2.com/blog-date-20111112.html をどうぞ)

赤穂浪士の人気はまだまだ根強いものがあるのだと再確認した。

それでは、これから赤穂浪士たちが通った道をおおよそ辿って、「本所松坂町」を目指すことにしよう。

高輪大木戸

泉岳寺を出て、第一京浜を北へ、田町、新橋方面に向かう。

数百メートルも行くと、右手に高輪大木戸が見えてくる。

ここからは江戸府内だ。

御田八幡宮

しばらく行くと、左手に「御田八幡神社」が見えてくる。

ここは赤穂浪士の引き揚げの際、一つのエピソードがあった場所だ。

それは、浪士が本懐を遂げてここまで来たとき、討ち入りの仲間を離れた高田郡兵衛という人物が、祝いの酒を持って現れたのだが、浪士たちから罵声を浴びて追い返されたというのだ。

この高田郡兵衛という人は200石取りで江戸詰、槍の達人といわれ堀部安兵衛らとともに仇討の強硬派だった。

大石内蔵助が、お家再興を第一に討ち入りに消極的だった時には、強く仇討を迫ったほどだった。

ところが、郡兵衛を自分の養子にしたい旗本の叔父に討ち入り計画を知られてしまう。

叔父は、一族に累が及ぶと討ち入りに猛反対、計画を訴えるといわれて止む無く脱盟したのだった。

泉岳寺

赤穂浪士たちを迎えた郡兵衛の格好は、麻裃姿の正装だったという。

その後、一行が泉岳寺に到着して休息しているときにも、郡兵衛は酒樽を持って面会を求めてきたが、同じように冷たく扱われたという。

「その後の郡兵衛がどうなったか」だが、養子に入った旗本家の家督を郡兵衛が継ぐことはなかったという。

その理由として

「赤穂浪士が英雄化されるにおよび、脱盟した郡兵衛の評価が地に堕ち、追放したとみられる。
その後の消息は不明」と、ウィキペディアには書いてあった。

歌舞伎座から永代橋へ

新橋から第一京浜を右に入り、永代橋の方に向かう。

途中、建設町の「歌舞伎座」の建物も見えた。

中央区役所前

浪士の引き揚げコースとは少し違うが、中央区役所の前に来ると、

なんと「義士祭パレード」の人達と出会った。
皆さん、本格的な扮装をしている。

これから、泉岳寺に向かうという。

東京臨海地域開発研究会というNPOの人達を中心とするグループの人達だ。

吉良上野介を発見した「間十次郎」のいでたちをした人は、槍に御印をつけるという凝りようだった。

「まだまだ、東京の下町に『忠臣蔵』は生きていた」というのが実感だった。


次回は、吉良の屋敷までのジョグで見たものを紹介する予定。

それでは。
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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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