忠臣蔵の現場~復元・洗足の井戸


日消会館

港区虎ノ門にある日本消防会館。

消防関係の機関、団体が入っているビルだ。

今回の忠臣蔵の現場はここの1階にある。

昔の消火ポンプ

ビルの中に入ると、昔、消防活動に活躍したポンプ車などが何台も展示されている。

近代消防のポンプ車と比べると、何とも非力に見える。

そして、この左側に、義士ゆかりの「洗足井戸」をイメージしたモニュメントが作られている。

洗足の井戸

これが、「洗足の井戸」をイメージしたモニュメント。

そもそも「洗足の井戸」とは、何なのかをご説明しよう。

ここは赤穂浪士が討ち入りをした元禄の頃、時の幕府大目付・仙石伯耆守久尚の屋敷があった場所。

元禄15年12月15日払暁、見事宿願を果たし、本所松坂町から高輪泉岳寺へ一行が凱旋する途中、

大石内蔵助は2名を、自訴(自首)のため仙石伯耆守のもとへ差し向ける。

62歳の吉田忠左衛門と33歳の冨森助右衛門だ。

その二人が、邸内にあった井戸で洗足し、座敷に上がったという史実をもとに作られたものだ。

現在の地図

仙石邸でのやり取りが、どんなものであったのか。

「赤穂義士の引き揚げ」(財 中央義士会監修)から見てみよう。

二人は内玄関で取次ぎに

”「私共は浅野内匠家来の浪人です。兼ねてよりご存知と思いますが、上野介殿は亡主内匠の敵にございます。

昨夜、吉良邸に推参し、ただいま泉岳寺へ引き揚げております。

何分にもご指図をお願いします」”

と申し上げれば、伯耆守、さっそくに内玄関に出てこられ(中略)

”「して、上野介は討ったのか」と質したので、忠左衛門は
「確かに御印頂戴仕りました」と答えた。

伯耆守は家老に

「これから急ぎ登城致す故、二人からことの事情を聴きだすよう。

それから、二人が休息している間に、衣服の着替えを用意するように」と指示を出した。

二人はここで足を洗うことを許され、、そのための湯も出されたようである”

江戸の地図

これは江戸後期の安政3年(1853)の地図。

仙石家は幕末も、討ち入りがあった時と同じ場所に屋敷を構えていた。
仙石治兵衛と書かれたところが仙石邸、現在の日本消防会館がある場所だ。

浪士たちの自首を受けてその後、幕府評定所で仙石伯耆守久尚を含む、大目付、町奉行など14人によって赤穂浪士の処分について議論された。

ウィキペディアによると、その結果

”久尚はじめほとんどの評定所参加者が浅野寄りであったため、12月23日に老中へ提出された評定所の最終的意見書は

『(上野介の孫で養子の)吉良義周は切腹、吉良家の家臣で戦わなかった者は侍ではないので全員斬罪、吉良の実子上杉綱憲は父の危機に何もしなかったため領地召し上げ。

浅野遺臣たちは真の忠義の者たちであるので、このままお預かりにしておいて最終的には赦免するべき』という大変浅野贔屓な内容となった。

これに対して、
本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か切腹か助命かで対応に苦慮する。

これを受けて学者間でも議論がかわされ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張、

荻生徂徠は『浪士の行為は、義ではあるが、私の論である。
長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない』と主張した。

結局、この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた”とのことだ。



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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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