忠臣蔵の現場~松の廊下・平川門


地図

今年も、忠臣蔵の義士祭の12月14日が近づいてきた。

そこで、忠臣蔵の現場をいくつか紹介したい。
今回のテーマは、松の廊下と平川門。

浅野内匠頭が、江戸城内で刃傷沙汰を起こした現場「松の廊下」跡は、皇居東御苑にある。

地図だと、左下のところ。天守台から南の方角に「松の大廊下跡」の文字が見える。

天守台

これが江戸城の天守台。

3代家光が1638年に大修築し国内最大の天守閣が出来たが、1657年の明暦の大火で全焼してしまった。

以来再建されることはなかった。

それでは、この天守台から松の廊下に向かって歩いてゆくことにしよう。

旧本丸に奉仕の人

天守台に上って南の方を眺めて見る。

芝が枯れて肌色に見える。

今写っているところは、江戸時代には旧本丸があった場所だ。

この日は、芝の上にたくさんの女性の姿が見えた。
どうやら清掃奉仕の人達のようだった。

紅葉の木を右に入る

この鮮やかな紅葉の木のところを、右に入ってゆく。

松の大廊下跡

すると、右手に「松の大廊下跡」と書いた看板と碑が見えてくる。

あたりは木々の緑の豊かなところで、江戸城の建物があったとは想像しにくい。

襖戸に松と千鳥が描かれる

松の廊下は、江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものだったという。

廊下に沿った襖戸に、松と千鳥が描かれていたことから「松の廊下」と言われた。

錦絵

浅野内匠頭が、江戸城松の廊下で吉良上野介義央(よしなか)に小刀で斬りかかったのは元禄14年(1701)3月14日。

事件後の取り調べに対して浅野内匠頭は、勅使饗応役指南の吉良上野介義央(よしなか)に対して、「吉良には私的な遺恨がある」と述べるだけで、具体的に何があったのかは不明だという。

事件は側用人柳沢吉保から将軍徳川綱吉に言上され、綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたとして激怒したといわれ、浅野長矩の即日切腹と赤穂浅野家の改易を命じた。

平川門

ここは江戸城の平川門。

「平川門は『不浄の門』とも呼ばれ、場内で罪人や死人が出ると、この門から出された」と案内板に書いてあった。

浅野内匠頭は、この門から出され、芝愛宕下(現在の東京都港区新橋4丁目)の陸奥一関藩主・田村建顕の屋敷にお預けとなった。

門の正面は毎日新聞社

平川門の正面に、毎日新聞社の本社の建物が見える。

田村右京太夫の屋敷へ

この地図は、安政3年(1856)のもので、事件のあった元禄から150年余も経っているが、田村家の屋敷は事件当時と同じ場所にあった。

現在の日比谷通りが屋敷の西端のところ(画面では左角)を通っていて、昔はこの付近は「田村町」といわれた。

浅野長矩は、座敷ではなく白砂(庭先)で、事件のあった3月14日(今の暦で4月21日)の六つ半(午後7時40分頃)、切腹した。

自刃を命じられる

前にも紹介したが、日比谷通りには「浅野内匠頭終焉の地」を記した碑が立っている。


浅野内匠頭の辞世は、幕府から派遣された検死役の記録によると

「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残をいかにとやせん」


”風に散らされる桜の花、その桜以上に春の名残が惜しい私だ。

そんな思いをいったいどうしたらよいのだ”

そんなに生への執着がありながら、いったいどうして、こんな事件を起こしてしまったのか。


ウィキペディアによれば、”様々な説があるが、真相についてはよくわからない”ということのようだ。

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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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