甘藷先生

目黒不動尊として知られる、「瀧泉寺」。
以前ここを訪ねたとき、子供の頃教科書で習った人物の墓と出会った。

「甘藷先生」とある。
江戸時代、サツマイモを救荒作物として全国に普及させるのに力を尽くした青木昆陽の墓だ。

青木昆陽(1698-1769)は江戸・日本橋の魚屋の子として生まれた。
幼いころから学問を志し、京都で学んだあと、江戸で塾を開く。
大岡忠相に認められ、35歳の時、救荒食料としての甘藷の効用を説いた「蕃諸考」を著し、時の将軍・吉宗に呈上。
吉宗は、甘藷の栽培を命じ、小石川薬園、現在の千葉幕張、九十九里町の3か所で試作させた。
昆陽は試作に成功し、甘藷は全国に広がり、その後の度重なる飢饉の仲、多くの農民たちの命を救うことになる。

これは、石川県金沢市の砂丘地で栽培されている「五郎島金時」。
知る人ぞ知るおいしいサツマイモ。
日本橋三越にも、時期になると売られているが、決して安くはない。
金沢に暮らしていた頃は、拾ってきた小石をホーローの鍋に詰め、その中にいもを隠すようにして焼いて食べたものだ。
「五郎島金時」は産地の名前だが、サツマイモは、各地で「唐いも」「琉球いも」「九州いも」「長崎いも」など様々な名前で呼ばれている。
これはそれぞれ、いもが伝わってきた元の場所が名前についているもので、いもの伝搬ルートがわかるようで面白い。

青木昆陽の功績によってサツマイモが日本全国に広まったのは18世紀の中ほど。
南米原産のサツマイモはスペイン・ポルトガル人の手によって欧米から東アジアに伝えられ、フィリピンから中国に渡ったのは1594年のこと。
中国での呼び名は「蕃諸」。
漢語林によると
「蕃」とは、「しげる」、「教化が行き届いていない異民族・えびす」とある。
中国としては「南蕃」、南方の外国から入ったものという意味なのだろう。
しかしいずれの呼び名も、単に伝来のルートを名前に付けたのではない様な気がする。
「繁殖力が強く、保存もきく」貴重な作物が、はるばる当地に伝わってきたという喜びの気持ちが入っているような気がするのだ。

墓石の「甘藷先生」の文字は、生前昆陽が自ら刻んだものだという。
昆陽は晩年、富士山を望む目黒の地を好み、大鳥神社の裏に別宅を構えて隠居所にした。
遺言として「死後は目黒に葬り、父と娘も一緒に開創してほしい」と残したという。

昆陽は「甘藷」の功により、幕府から書物奉行(今でいうと国立国会図書館長)に取り立てられ、
吉宗の命によってオランダ語や蘭学を学ぶことになる。
1769年、昆陽が亡くなった年に、昆陽のもとを前野良沢が訪ね、オランダ語の教えを乞うた。
前野良沢は、その後杉田玄白らとともに、オランダ語で書かれた医学書を翻訳、「解体新書」として世に出した人だ。
「甘藷」だけでなく「蘭学」の発展にも関わった人といえる。

墓には、昆陽の遺言通り、父親の霊も一緒に供養していると記した「報恩塔」が建っていた。
毎年10月28日には、ここで「甘藷祭」が開かれ、全国のサツマイモ産地から参拝の人が訪れる。
京成幕張駅の近くには「昆陽神社」という神社もある。
サツマイモが、如何に多くのの人たちにとって「ありがたいもの」であったのかを物語っている。
スポンサーサイト