歌舞伎の力・作者の力~河内山宗俊

新橋演舞場

新橋演舞場で、2代目中村吉右衛門の歌舞伎を見る機会があった。

実の祖父で、初代吉右衛門の芸を次世代に伝えようと言う「秀山祭」(秀山とは、初代の俳名)の公演があったのだ。

演目

昼の部の演目は、この二つ。

「寺子屋」は、命を狙われる菅原道真の子の身代わりとして、我が子を犠牲にした「松王丸」の物語。

松王丸役の吉右衛門の名演に、私の周りの席の観客は皆ハンカチで涙を拭い、私も涙が止まらなかった。

もう一つは、「河内山」。

悪人ながら、どこか憎めない人物が主人公。

作者は河竹黙阿弥、「白波五人男」「三人吉三」と同じ系統の話で、七五調の名文句が心地いい。

この主人公は実在の人物がモデルで、その墓が都内にあり、以前訪ねたことがあった。

高徳寺

港区北青山にある浄土宗「高徳寺」。

秩父宮ラグビー場から近いところにある。

河内山宗俊の碑

境内に入ってまもなく、右手に「河内山宗俊之碑」と書かれた大きな石碑が建っている。

河内山宗俊とは歌舞伎上の名前で実名は「河内山宗春」という。
一体どんな人物なのか、ウィキペディアには、こう書いてある。

「宗春(生年不明~文政6・1823)は江戸出身で、11代将軍徳川家斉治世下の江戸城西の丸に出仕した表坊主であった。
表坊主とは若年寄支配下に属した同朋衆の一つ。将軍・大名などの世話、食事の用意などの城内の雑用を司る役割で僧形となる。
文化5年(1808年)から6年ごろ小普請入りとなり、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、その親分格と目されるようになったという。
やがて女犯した出家僧を脅迫して金品を強請(ゆす)り取るようになった。
巷説では水戸藩が財政難から江戸で行っていた富くじの経営に関する不正をつかみ、同藩を強請ったことが発覚し、捕らえられたというが、正式な記録はない。
文政6年(1823年)捕縛された後、牢内で獄死」

さて、それでは歌舞伎のあらすじはどのようなものだろうか。

河内山あらすじ

歌舞伎のあらすじはこんな具合だが、

河内山が北村大膳に、江戸城内で以前顔を見られていたことから正体を見破られる。

その時の「とんだところへ北村大膳」を含む長台詞は、小気味がよく痛快でもある。

ウィキペディアには、死後の河内山について

「河内山は取調中に牢死したため申し渡し書(判決書)も残っておらず、具体的にどのような不正を犯して捕らえられたのかは分からない。
しかしそのことがかえって爛熟した化政文化を謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという義賊的な側面が、本人の死後に増幅していくこととなった」と書かれている。

そして、河内山をヒーローにするうえで大きな力を果たしたのは、この歌舞伎という芸と、その作者の河竹黙阿弥なのだろう。

「河内山宗俊之碑」の裏側には、中村吉右衛門(初代)、守田勘弥の名前が掘られていて、大正11年の河内山の百回忌に建てられたことがわかる。

舞台

そして、それからさらに100年。

河内山を主人公にした歌舞伎は、今も名優たちによって演じられ人々の心の中に生き続けてゆく。

いわば江戸時代の小悪人、

なのに、あれほど立派な碑が立っているとは。

歌舞伎の力・影響力は、すごいものだと思う。


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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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