「出世の石段」の梅が危ない


祭りポスター

港区・愛宕神社の「出世の石段祭」のポスターを見かけた。

近頃は、TVやラジオで講談を放送することが昔と比べると大分少なくなっているから、「出世の石段」と聞いてもピンと来ない人が多くなっているに違いない。

愛宕神社

「出世の石段」とは、「寛永三馬術」という講談の舞台となった愛宕神社の急な石段のことだ。

講談の内容を簡単に紹介しよう。

時は江戸初期の寛永、三大将軍家光が増上寺からの帰途、愛宕山上の梅の香りに気づく。

「誰か馬に乗って男坂を登り、梅を手折って来る者はおらぬか」

出世の石段

その男坂の勾配はご覧のとおり。

急勾配で失敗者が続出。

そこに名乗りを上げたのが、四国丸亀藩の間垣平九郎。

曲垣平九郎

間垣平九郎は、この急な86段の石段を見事上り、山上にある梅の小枝を手折って再びこの石段を下り、家光に梅を差し出したのだった。

平九郎は、この成功によって褒美と名声を得たことから、この石段が「出世の石段」と呼ばれるようになったのだ。

下からこの階段を眺め、実際に登ってみて、馬で登るなどとても出来そうにないと思えるのだが、実は間垣の他に何人もが、馬による上り下りに成功している。

港郷土資料館の「愛宕山」という本には、曲垣の他に、明治14年に成功した強心流馬術師の石川清馬という人物など4人の名前が紹介されている。

最も最近では、昭和57年の、馬術スタントマン・渡辺隆馬氏の記録があり、これはNHKの「ブラタモリ」の中でも映像が紹介されていた。(去年8月11日のブログでも簡単に触れた)

昭和の間垣平九郎

これがその時の様子。

渡辺隆馬氏は登るのに、わずか32秒しかかからなかった。

成功した人に、「馬」が付いている名前の人が多いのも面白い。

手折りの梅

そして、今日のテーマだが、「山上の本殿の横にある所縁の松」が危ういように、私には見えた。

この梅がそうだが、幹の下のほうがひび割れて、今にも寿命を迎えそうな感じだ。

梅の上部

上の方を見ると、新しい葉も見える。

ネットで「梅の木の寿命」を調べたら、宮城県松島町の瑞巌寺には伊達政宗が朝鮮から持ち帰った梅があるという。

とすれば、400年の樹齢を数える梅も存在する。

とはいえ、現在の梅の様子を見ると、そろそろ接木などで2代目を考えておいたほうが良さそうだ。

歴史の舞台、愛宕神社

ここ愛宕神社は、徳川から明治へと変わる激動の時代に、歴史的出来事の舞台になっている。

ひとつは、幕末の万延元年(1860)3月3日、江戸城桜田門外で幕府大老の井伊直弼を襲った水戸脱藩浪士が集結した場所であったことだ。

彼らは早朝、町人の格好で愛宕神社に参詣。

雪見に来たのだと言って神社の番人に酒などを買いに行かせ、その間に身支度をして襲撃に向かったと伝えられている。

そしてもうひとつは、明治元年(1868)3月13日、勝海舟が西郷隆盛を伴って愛宕山に登り、

西郷に江戸市中を見せて説得したことで、江戸城の無血開城につながったというエピソードだ。

しかし、この話については、事実なのかどうか疑問視する声もあるようだ。

昔の人は、徳川の世から明治新政府に移ることを、徳川の紋章と天皇家の紋章になぞらえて「菊は栄えて葵は枯れる」と表現した。

神社本殿

この愛宕神社は、徳川家康が江戸に幕府を開くのに当たって、江戸の防火・防災の守り神として創建したという由緒を持ち、社殿には徳川の葵の紋も見える。

ちょうど今の時期は、夏も終わりが近づき、秋風が吹いて季節も変わろうという時期。

まもなく9月9日重陽の節句、まさに「菊は栄えて葵は枯れる」季節を迎えようとしている。

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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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