鹿鳴館はこんなところにあったんだ

「鹿鳴館」。
明治時代の官設社交場として明治16年、英国人コンドルの設計で作られた。
とまでは、歴史の時間に習った気もするが、どこにあったのかは全く知らなかった。
実は、この場所にあったのだ。帝国ホテル
ここは東京・日比谷公園と道を挟んで反対側、画面左に見えるベージュ色の建物は「帝国ホテル」、その右側のNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)の建っている場所が、鹿鳴館のあった場所だ。
ここは、旧薩摩藩の中屋敷で、薩摩藩装束屋敷とも呼ばれていた。琉球使節一行が江戸城に登城する際、ここで装束を着替えたからという。
プレート
ビルの敷地の、帝国ホテルよりのところに、このプレートがあった。
すぐ前は日比谷公園で緑も多く、都心としては比較的静かなところだ。

当時は、連夜の舞踏会で、今より賑やかだったのかもしれない。

そして、そこから200メートルほど歩いたところに別の記念碑がある。一葉誕生地跡
場所は、近くの内幸町の交差点をJRの線路に向かって左折し、100メートルほど歩いた右側、「内幸町ホール」の横だ。
この先、100メートル左には東京電力の本社がある。

案内板
「樋口一葉生誕地」とある。
一葉は明治初期、極めて短い年月の間に「たけくらべ」「にごりえ」などの作品を残し、24歳で亡くなった薄幸の女流作家だ。
一葉が生まれたのは明治5年。「父が南町奉行所の同心で、維新後東京府庁に勤めていたため、この付近にあった東京府庁構内の長屋で生まれた」とある。
父は、明治9年に免職になり、10年には一家は御徒町に移っているので、鹿鳴館の完成した16年には、この辺りには住んでいない。

その後父親が亡くなり、一葉は戸主として生活の苦労を背負いこむ中で文学に取り組み、素晴らしい作品を作り上げてゆく。
旧宅
一葉が貧しい暮らしを送った本郷の旧居跡。
2009年に撮影した。
画面には映ってないが右手に井戸が残っていて、一葉が暮らしていた当時の雰囲気を色濃く残しているように感じた。

一葉は、私の生まれ育った町の隣・芝西応寺町で暮らしていたという記録もあり、そんなことからも親しみを感じる。

鹿鳴館に集う人たちの暮らしと、一葉の描いた下町の庶民の暮らし・・・なんと対照的な世界だろう。

一葉の記念碑には
「士族の誇りを胸に、つつましく見えて ときに大胆、心根は優しく 時に辛辣、女であることを嘆きつつ ときに国を憂えた」とあった。
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当時をしのんで

鹿鳴館みてみたかったですね。

「宮沢賢治の東京を訪ねて」の旅で、樋口一葉のかつての家には

私も行ったことがあります。

本郷三丁目で友人と待ち合わせをして賢治の会四人でいろいろ案

内してもらいました。

賢治が勤めていた文信社印刷所跡が東大赤門前の大学堂眼鏡店

になっていました。

下宿跡も菊坂通りにあっていろいろな文人の夢のあとを、とても興

味深く感じてきました。

啄木が暮らした理髪店あとは、明治村に移築されていて金沢に行

った時にありました。

でも、その時あった「・・・の跡」の立て看板も、一葉の井戸もすべて

なくなったと聞きましたが、残念でなりません。

みんながそこに訪れて住んでいる人の生活の邪魔をするからだそう

です。

そうやって歴史がわからなくなっていくんですね。静かにそっと当時

を感じて、通り過ぎればいいのでしょうが……。

Re: 当時をしのんで

REIさんはホントにいろいろなところに行っているのですね。REIさんの知らない新鮮な話題を紹介するのは大変ですが、一生懸命足で稼ぎます。

ただしその際、いくら興味がある素材だったとしても、そこで暮らす人の迷惑になってはならないということを
肝に銘じておかねばと思います。

貴重な文化遺産を後世に残してゆくためにも。
プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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