伊能忠敬の「最東端到達」記念柱

下線文地図

江戸時代に日本全国を歩き、極めて正確な日本地図を作った伊能忠敬が、測量のため足を踏み入れた最東端の地は、納沙布岬ではなく別海町のニシベツだった。

ニシベツを地図で見てみよう。

釧路から根室に向かう国道44号を、厚床から244号に入って北上する。
風連湖を過ぎると、海沿いに「本別海」という地名が見える。

そこが忠敬の到達した最東端であるニシベツ、現在の地名では「別海町本別海」だ。

ちょうど西別川の河口付近にあたる。

忠敬らの測量隊一行6人は、浜中町の姉別から根室へ向かう予定だったが迎えの船が来ず、代わりにニシベツから迎えの船が来たためニシベツへ向かったのだ。

一行は、ニシベツに2日間逗留し、海岸から根室半島、納沙布岬、国後島などを測量。

ここで蝦夷地での測量を終え、帰途に就いた。

片道400里、忠敬らは往路と同じ道を測量しながら 往復で180日間かけて江戸へ帰って行った。

日本離れの風景

風連湖近くの景色は雄大で、日本離れしている。

牧草の緑が、美しい田園風景を見せている。

川が見える。

しかし、時折見えてくる河口の周辺は、まだ手つかずの自然が残っている。

忠敬一行が訪れたときは、陸路が整備されておらず、船でしか行けなかったのだ。

そして、訪れた時期は9月下旬で、徳川将軍家に献上するサケ漁で忙しい時期だった。

本別海の一本松

本別海の町に入り、走古丹へ向かう道道475号に入るとすぐに、この案内が見える。

明治初年に番屋の祠の近くに植えられた一本松が今も残っていて、忠敬の記念柱はその松の近くにあるのだ。

記念柱

海沿いの、原野を切り開いた土地に記念柱は建っていた。

自動車の通行も少なく、私が訪れた時は、私以外に訪れる人はなかった。

説明

説明には、サケ漁の最盛期だったために船の手配ができず、根室、クナシリでの測量を断念したということが書いてあった。


この第一次測量の一行の足跡を見ると、北海道渡島半島の吉岡から函館を経て、南東岸を通ってニシベツまで来ている。

とすると、ここで一つの疑問がわく。

「北海道の北部、西部など忠敬が行かなかったところは、誰が測量したのだろう」という疑問だ。

野付半島

伊能忠敬によって作られた「大日本沿海與地全図」。

本別海の北部にあたる野付半島も正確に描かれている。

実は、伊能の地図作りに協力したのは探検家・間宮林蔵だった。

間宮林蔵は、樺太が島であることを確認した人物として知られている。

間宮林蔵

ウィキペディアによると、間宮林蔵は伊能忠敬より35歳年下。

19歳の時、伊能に測量知識を学んでいる。

間宮林蔵は、蝦夷地で残っている部分の測量は自分の手で行うことを決意し、文化9年(1812)から5年を費やして測量し、伊能図の最終版完成に大きな役割を果たしたのだという。

こうして、蝦夷図については、伊能と間宮の測量図を合体させたものとなった。

伊能忠敬の北海道地図が間宮林蔵の協力があってできたことを、今回、初めて知ったのだった。
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釧路へ移住?

ずうっと釧路ですが、短期移住ですか?

Re: 釧路へ移住?

> ずうっと釧路ですが、短期移住ですか?

暑い東京を避けて、走るトレーニングのために行っていました。

もう少し滞在したかったのですが、東京に戻ってきました。

これからは東京での暮らしに戻ります。

ということでよろしくお願いします。

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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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