石川啄木~釧路の七十六日

啄木像

釧路川の左岸、河口近くに立つ石川啄木像。

彫刻家・本郷新の作品だ。

後方に、対岸の釧路フィッシャーマンズワーフが写っている。

啄木が釧路に滞在したのはは明治41年(1908)1月21日から76日間。

今から104年前のことになる。

旧釧路新聞社

この建物は、啄木が編集長待遇で採用された旧釧路新聞社(現在の釧路新聞社とは別)の建物を復元したもの。

これより2年前、19歳で結婚した啄木は故郷・渋民村での代用教員の職を捨て、妻子も故郷に残し、一人北海道へ旅立つ。

函館、札幌、小樽と移り住むが、「小樽日報」の記者をしていた時に小樽日報と釧路新聞を経営する人物に、その才筆を見込まれ、編集長待遇で釧路新聞社に採用される。

満22歳目前の若さだった。

釧路停車場

1月21日、真冬の夜9時半、釧路停車場に到着する。

当時の駅前は、今よりもっと暗く、もっと寒かったに違いない。

米町歌碑

その情景を詠んだ歌の碑が、当時、町の中心地であった米町の公園に建っている。
(この地は、作家・林芙美子の勧めで選ばれたのだという)

「さいはての 駅に下り立ち 雪あかり さびしき町に あゆみ入りにき」

この時啄木は、間もなく22歳になろうとする若さだった。

記念写真2

釧路新聞社前での記念撮影。

啄木は後列左から7人目、山高帽をかぶっている。

執筆記事

啄木が執筆した記事の中に、こんなものがある。

「紅筆便り」との題がついていて、花柳界の動静のような中味だ。

文中に出てくる「小奴」という芸妓を詠ったこんな短歌も残っている。

「小奴と いひし女の やはらかき 耳朶(みみたぼ)なども 忘れがたかり」

歌碑2

啄木が通った料亭の場所近くに建つ歌碑。

「葡萄(えび)いろの 古き手帳に 残りたる かの会合(あいびき)の 時と処かな」

本行寺の歌碑

本行寺の前には、この寺で開かれた歌留多会を詠んだ歌碑が立っている。

「一輪の 赤き薔薇(そうび)の 花を見て 火の息すなる 唇(くち)をこそ思へ」

仕事だけでなく、恋愛にも情熱を燃やしていた様子がうかがえる。

銅像の下の説明


そして、こんな歌もある。

「こほりたる インクの壜を 火に翳(かざ)し 涙ながれぬ ともしびの下」

「文学への夢を持っている自分が、こんな暮らしをしていてもよいのか」という強い自責の思いが伝わってくるようだ。

啄木は、4月5日、釧路を離れる。

釧路滞在は、真冬の2か月余りの短い期間だった。

東京本郷にあった床屋「喜之床」の2階に間借りするのは、それからしばらく後のことになる。
(2011年12月21日のブログ「明治村にある床屋さん」で、この後の啄木の暮らしに触れているのでご覧ください)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

石川啄木

啄木は釧路にも生活していたのですね。

北海道というと

 札幌の青柳町こそ悲しけれ友の恋歌矢車の花

が思い出されます。恋をしていてと矢車草が好きだったからかな。

Re: 石川啄木

> 啄木は釧路にも生活していたのですね。
>
> 北海道というと
>
>  札幌の青柳町こそ悲しけれ友の恋歌矢車の花
>
> が思い出されます。恋をしていてと矢車草が好きだったからかな。



REI様、

いつもも読んでいただいてありがとうございます。
ほんとに文学少女だったのですね。

いろいろと詩歌を知っていて感心します。

ただ、この歌は、確か函館ではなかったかと思い調べたら、やはり札幌ではなく、函館でした。

当時の札幌は、啄木の好きな紅灯の巷の雰囲気はあまり感じられません。
やはり、啄木には港町が似合いますね。

涼しい港町・釧路から暑中見舞いかたがた、ご連絡します。

それでは、健康に十分お気をつけてお過ごしください。


No title

啄木集を紐解いてみればよかったのですね。
恥ずかしいです。
何十年も見てませんでした。

ありがとうございます。
プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
スポンサードリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR