「高尾稲荷神社」を訪ねた


7月6日のブログで触れた、二代目高尾太夫を祀ったとされる「高尾稲荷神社」を訪ねてみた。

ところが、私がネット上で見た「高尾稲荷」の住所は正しくなかったので、たどり着くまで大変苦労した。

何度も同じところを回り、近所の人に訊ねてもわからない。

それもそのはず、住所が違っているのだからたどり着くはずもない。

交番で「高尾稲荷」を訪ねると、「この辺は小さな神社がたくさんあるから」といって、親切に場所を教えてくれた。

その結果ようやくたどり着いた場所を地図で紹介すると、「高尾稲荷」と書いたところになる。

地図

永代橋を江東区のほうから中央区へと渡り、すぐ右折すると日本橋川にかかる豊海橋がある。

豊海橋を渡り、突き当りを左折するとすぐだ。

豊海橋を渡る

豊海橋を渡ってすぐのところ。

後方に、永代橋が見える。

実は、この写真を撮影している場所の、すぐ左後ろに「日本銀行創業の地」の記念碑が建っている。

日銀創業の地

「日本銀行創業の地」の碑には、次のように記されている。

「明治15年10月10日、日本銀行はこの地で開業した。

明治29年4月、日本橋本石町の現在地に移転した。

創業100周年を記念してこの碑を建てる

昭和57年10月
日本銀行総裁 前川春雄」

調べてみると、この場所には、当時大蔵省が管理していた「旧北海道開拓使出張所」の建物があった。

建物の設計は、鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドル。

当時の資料には「開拓使物産売りさばき所」とあるから、北海道の物産を売りさばく施設として利用された建物を活用したのだろう。

日本橋川の入り口

そして、この川は豊海橋の下を流れる日本橋川。

「この付近は新堀河岸と呼ばれ、諸国から江戸に運ばれた酒を陸揚げするところで、川に沿って白壁の酒蔵が並んでいた」との説明があった。

残念ながら、今、その面影はない。

こんな案内があった

そして、豊海橋を渡った所に、地元の町会などが建てたこんな案内があった。

要約すれば
「江戸時代、この地は徳川家の船手組持ち場だった。
1708年の元旦に下役の人物が見回り中、川岸に首級が漂流しているのを見つけ、手厚く埋葬した。

当時、1659年ごろから、高尾太夫が伊達綱宗に、太夫の目方だけ小判を積んで請け出されたのになびかぬとして、隅田川三又の舟中で斬られたと伝えられていたため、世人はこれを高尾太夫のものとして高尾稲荷の起縁となった。

この地にあった稲荷社は、現三井倉庫の建設に伴い、現在地に移された」

と書いてある。

神社が見えてきた

案内から100mほど離れたところに「高尾稲荷神社」はあった。

思ったより、小さな社だった。

左隣は、駐車場として利用されているようだった。

神社全景

2代目高尾太夫が伊達綱宗に殺されたとする話には、様々な説があり真偽のほどは定かではないことは、以前にも紹介した。

ウィキペディアにも、
「1659年当時、吉原三浦屋に高尾の名跡の遊女は存在していない」とある。

更に、神社の縁起でよく理解できないのは、「高尾が亡くなったとされてから50年近くたって発見された首級が、どうして高尾のものだと認定されたのか」という点だ。

そのあたりのもう少し詳しい説明があるかと期待して訪ねたのだが、その点は不明のままだった。

「現在この社には、稲荷社としては全国でも非常に珍しく、実体の神霊(実物の頭蓋骨)を祭神として社の中に安置してあります」(箱崎北新堀町会掲示)とのこと。

ツタンカーメンのミイラが科学的に分析され、その死因を探った番組を見た覚えがある。

であるなら、そうした手掛かりから、将来何か新事実が明らかになる時が来るのかもしれない。

しかしながら今のところは、新たな情報を得ることができず、残念な思いだった。

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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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