住吉神社に建つ碑、消えた碑

住吉神社の鳥居

佃島・住吉神社の大鳥居。

鳥居の向こうは、すぐ隅田川。
昔、「佃の渡し」があったあたりだ。

社

住吉神社の社。

「天正18年(1590)、徳川家康が関東下向の際、摂津国佃の漁夫33人と、大阪佃の住吉社の神職の弟も江戸に下った。
幕府から賜った鉄砲洲向かいの干潟に島を築き、佃島と命名。
その地に、正保3年(1646)、住吉三神、神功皇后、徳川家康を祭祀したのが佃住吉神社の起こりです」と、本殿の横に縁起が書かれていた。

5世川柳の句碑

境内には、佃島にゆかりの深い5世川柳・水谷緑亭(1787-1858)の句碑が建っている。

「やわらかで かたく持ちたし 人ごころ」

柔軟な心を持つ一方で、曲げてはいけないところは堅く守って生きたいもの  とでもいうような意味だろうか。

何か苦労人であることを感じさせる句だが、ウイキペディアなどの説明を読んで、少し分かった気がした。

こう書いてあった。

緑亭説明

「南茅場町(現在の日本橋茅場町)に生まれた緑亭は幼いころ父をなくし、江戸佃島の漁師に養われたが、
魚問屋を開き名主となった。

2世川柳(柄井弥惣右衛門)に川柳を学び、腥斎 佃(なまぐさい たづくり)と号した。

柄井川柳が流行させた「川柳」は川柳の没後、一時勢いを失うが、南町奉行与力の同心であった4世川柳(人見周助)が句風を改め、「川柳」の勢いを回復させた。

天保の改革の綱紀粛正の流れの中で、役人が前句付の点者をすることをはばかることなどで、天保8年(1837年)に緑亭が五世川柳を継承した。

緑亭は10代から句作を初め、衆望を集めたが、地味な人柄で、養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などで、町奉行所から三度にわたり褒章を受けていた(人物であった)」

養父母に育ててもらった恩を忘れず、仕事と川柳に向かい合い、しっかりとした足跡を残した人という感じだ。

苦労して人間を磨き上げたのだろうというのが、この句からうかがえる。
「やわらかで かたく持ちたし 人ごころ」

さて、今回紹介するもう一つの碑は、この境内からいつの間にか姿を消してしまったものだ。

消えた碑

「伝 東洲斎写楽 終焉の地」という碑。
これを撮影したのは、2008年12月だった。

その当時、写楽は謎の絵師として、正体については様々な説があった。

写楽は江戸中期の浮世絵師で、寛政6年(1794)5月からの10か月間に145点の作品を出して、その後忽然と姿を消している。

20世紀の初めにドイツの美術研究家が、「写楽は、レンブラント、ベラスケスと並ぶ世界3大肖像画家」と評したことから日本でもその評価が高まったが、その正体が誰であるのかについては、様々な説があった。

写楽の首絵

ウィキペディアによれば

「別人説の候補として浮世絵師の歌川豊国、葛飾北斎、喜多川歌麿、司馬江漢、谷文晁、円山応挙、山東京伝など、多くの人物の名が挙げられた」とある。

しかし、最近は、東洲斎写楽は、徳島阿波藩の能役者でもあった斉藤十郎兵衛だという説が有力になってきている。

「『江戸名所図会』などで知られる考証家・斎藤月岑(げっしん)が1844年に記した『増補浮世絵類考』には、写楽は俗称斎藤十郎兵衛で、八丁堀に住む『阿州侯(阿波徳島藩の蜂須賀家)の能役者』であるという記述がある。
これが唯一、江戸時代に書かれた写楽の素性に関する記述である。
また“東洲斎”という写楽のペンネームも、江戸の東に洲があった土地を意味していると考えれば、八丁堀か築地あたりしか存在しない。
さらには“東洲斎”を並び替えると、“さい・とう・しゅう”(斎・藤・十)というアナグラムになるとも推測することもできる。

(そして)近年の研究によって斎藤十郎兵衛の実在が確認され、八丁堀に住んでいた事実も明らかとなったため、現在では再び写楽=斎藤十郎兵衛説が有力となっている」

とのことだ。

境内にあった「終焉の地」の碑は、写楽の正体について、だれに擬していたのかはっきりとは覚えていないが、斉藤十郎兵衛とは違う絵師の名前が記されていたように思う。

神社の方に話を伺うと、碑は地震で危険だったために撤去したとの話だった。

境内に碑が設置された経緯も、神社近くにあったものを境内に移設してほしいと依頼があったためで、
その内容については、よくわからないと話していた。

亀島橋のたもと

ここは、中央区八丁堀の亀島橋のたもと。

この付近にゆかりの人物などが紹介されている。

その中に写楽の名前もあった。

写楽の説明

説明では、

「1997年に埼玉県越谷市の法光寺の過去帳から、『江戸八丁堀に住み、阿波藩に仕えた斉藤十郎兵衛』との記述が発見され、写楽・斉藤十郎兵衛が八丁堀に居住していたとの説が注目されるようになってきた」

と、紹介されている。

この説明でもウイキペディアでも、写楽=斉藤十郎兵衛と断定しているわけではなく、”有力もしくは、注目”との言葉で表現している。

写楽の正体については、斉藤十郎兵衛説がかなり有力になったとはいえ、

短い間に写楽の作風が大きく変わったのは何故かなど、まだまだ多くの謎が残されているという。


この後、写楽の正体に迫るどのような資料が出てくるのか、楽しみだ。
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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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