「八丁堀の旦那」といえば誰?


地下鉄・八丁堀

私のよく走るジョギングコースに、中央区の八丁堀を通るコースがある。

八丁堀という地名は、江戸のはじめ、この地に長さが約八町(約873m)の堀が開削されたため、その堀に由来してつけられたという。

八丁堀といえば、時代劇でよく聞く台詞「八丁堀の旦那」が住んでいた場所。

江戸時代の痕跡が、この街のどこかに残っていないかと、細い路地をいろいろ走って探してみたが、なかなか見当たらなかった。

京華小跡

先日、八丁堀から京橋に向かう大通りを走っていると、元の京華小学校(現在は京華スクエアといって産業振興のハイテクセンターや早稲田大学の生涯学習機関の教室として利用されている)の建物の前に、八丁堀の歴史を記した案内板が立っていた。

案内板

それには、このように書いてある。

「(このあたりは)初めは寺町だったものが、寛永12年、江戸城下の拡張計画が行われ、寺が移転したあとに与力・同心組屋敷の町が成立しました。

その範囲は、茅場町から八丁堀一帯に集中しています。

(与力・同心のうち)与力は徳川家の直臣、
同心はその配下の侍衆、着流しに羽織姿で懐手(ふところで)、帯に差した十手の朱房も粋な庶民の味方として、人々の信頼を得ていました。

与力は知行200石、屋敷は300-500坪、
同心は30俵2人扶持で、100坪ほどの屋敷地でした」

現在の住宅事情からすると、かなり広い屋敷地に住んでいたことになる。

むっつり右門

我らの「八丁堀の旦那」といえば、むっつり右門だ。

小説「右門捕り物帖」の主人公で、映画では嵐寛寿郎、大友柳太朗の当たり役だった。

むっつり右門は、南町奉行所の同心で、名前が近藤右門。
無口なことからその異名があるという設定だ。

同心というのは、今でいうと警視庁の刑事クラスで、与力は警察署長クラスと説明する歴史サイトもある。

そして、岡っ引きの「おしゃべり伝六」は今でいうところの公務員ではなく、右門の私設の手下なのだそうだ。

元・京華小前の案内板には
「生活費を得るために、町民に屋敷地を貸す者も多く、文化人や、学者を輩出した町としても知られています」と書かれている一方、

「江戸町奉行所配下の与力は、治安を担当しているだけに諸大名や商家などからの付け届けが多く、裕福な家も多かった」と、ウィキペディアには書かれていた。

桜川公園

ここは、昔、八丁堀があったあった所に作られた桜川公園。

八丁堀は明治になってから桜川と改称され、昭和35年から始まった埋め立てで完全にその姿を消した。

埋め立てられたところの一部が、この桜川公園だと、説明に書かれていた。


ウィキペディアには、
「江戸の三男(さんおとこ)」という面白い話も紹介されていたので、最後にそれを紹介したい。

それは、こんな話だ。

「与力(同心も)は特権として、毎朝、湯屋の女風呂に入ることができた。
(それは)当時の女性は朝風呂の習慣がなかったため空いており、男湯の密談を盗聴するのに適していたからだ。
(ということは、男たちも朝ぶろに入るものが多かったということなのだろう)

(そして、風呂のあと)屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。
伊達男が多く、与力・力士・鳶の頭(かしら)を『江戸の三男』と称した」


犯罪情報の収集をしながら、体も洗い、まげを結ってさっぱりとした様子で出仕する与力。

当時の、八丁堀の街と暮らし振りの一端が見えるようで、面白い話だと思った。
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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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