堂々たる墓~その② 山内容堂


山内容堂

堂々たる墓の2回目。
今日ご紹介するのはこの人、山内容堂(永元4・1827~明治5・1872)。
幕末の土佐藩主だ。

2010年の大河ドラマ「竜馬伝」で近藤正臣が演じていた。

自分が重用した吉田東洋を暗殺したとして、土佐勤王党の指導者・武市瑞山(半平太)に切腹を命じるシーンなどが印象に残っている。

近藤正臣の容堂は、酒を飲みながらの厳しい目つきが印象的で、存在感があった。

容堂は自らを「鯨海酔候(げいかいすいこう)」と呼び、浴びるほど酒を飲んだという。

幕末の四賢候の一人で、明治維新の成立に一定の役割を果たした人物だ。

墓

その墓がこれ。
大きな立派な墓だ。

ここは寺ではなく、近くには土佐藩の下屋敷があった場所。

本人の遺言でこの地に葬られたのだという。

地図

地図を見てみよう。

品川区東大井4丁目。第一京浜沿いの丘の中腹に墓はある。

江戸の頃は海が見えただろう。

京浜急行の鮫洲駅に近いところだ。

第一京浜から見える

第一京浜から丘の方を見上げると、「立会小学校」という字の下に、「山内豊信(容堂)公墓所」と読める。


公開時間

第一京浜に沿って墓所に通じる道があり、歩いてゆくと門が見える。

容堂は分家の出身で、前2代の藩主が相次いで急死したため、思いがけなくも急遽藩主の座に就いた。
普通であれば、藩主になることはなかったのだが、藩主になってからは吉田東洋を重用して藩政改革に取り組む。

維新前夜には、後藤象二郎が坂本竜馬から聞き及んでいた「船中八策」をもとに大政奉還を建白し、明治維新に一定の役割を果たした。

説明

しかし、公武合体論者の容堂は、急進的な尊王攘夷とは距離を置く。

維新後は、内国事務総裁に就任したが短期間で辞職。

以降は「酒と女と詩」の遊蕩三昧。
明治5年、40代半ばで急逝している。

司馬遼太郎は、容堂を主人公にして、小説「酔って候」を書いた。

そして、去年10月に亡くなった柳ジョージは、その小説に触発されて同名の曲「酔って候」を作詞・作曲した。

柳は、司馬宅を訪ね、発売の許可をもらったそうだ。


土佐の鯨は 大虎で

腕と度胸の男伊達(おとこだて)

いつでも 酔って候


酒と女が 大好きで

粋な詩も雪見詩(ゆきみうた)

いつでも 酔って候



※鯨海酔候(げいかいすいこう) 無頼酒(ぶらいざけ)

鯨海酔候(げいかいすいこう) 噂の容堂



二升入りの 瓢箪(ひょうたん)で

公家を脅かす無頼酒(ぶらいざけ)

粋な 酔って候


歯が疼き 目も眩み

耳鳴りしようとも

いつでも 酔って候

(※くり返し)

新橋 両国 柳橋

夜の明けるまで飲み続け

粋な 酔って候


維新後の容堂の生活は、ウィキペディアには、このように書いてある。

「明治維新後は内国事務総裁に就任したが、かつて家臣や領民であったような身分の者と馴染む事ができず、明治2年(1869年)に辞職。しかし木戸孝允とは仲が良く、自邸に招いては明治政府の将来などについて語り合ったという。

隠居生活は当時、別荘地として知られた橋場(東京都台東区)の別邸で、妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる晩年を送った。

また、連日、両国・柳橋などの酒楼にて豪遊し、ついに家産が傾きかけたものの、容堂は『昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう』と豪語し、家令の諌めを聞かなかったという。

また、武市瑞山を殺してしまったために土佐藩内に薩長に対抗できる人物を欠いて新政府の実権を奪われたと考え、これを悔やんだともいう。

明治5年(1872年)、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳(数え年)の生涯を閉じた」

柳ジョージの歌を聴いているうち、
司馬遼太郎の「酔って候」を読んでみたくなり、図書館に行って読んでみた。

容堂の生い立ちや人物像、幕末の土佐藩の内情などがわかって参考になった。

柳ジョージの歌の意味が今一つ理解できない方には、一読をお勧めしたい。

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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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