コリアタウンと「小泉八雲記念公園」
最近、都内のコリアタウンを3か所訪ねてみた。
上野、赤坂、大久保の3か所だ。
それぞれ特徴があるが、一番活気があって、まるで韓国にいるかのような感覚になるのは、大久保地区が一番だった。
まず、地図で紹介しよう。

JR新大久保駅付近の、大久保通りと職安通りに挟まれた地域に、韓国の物産を売る店が密集している。
地図の右側に、後程紹介する「小泉八雲記念公園」が載っているので、覚えていてほしい。

大久保通りと職安通りを結ぶ路地に入ると、ハングルで書かれた無料の情報誌が無造作に置かれている。
韓国料理の店も目につく。
「テーハンミングク」とハングルで書かれたお店は、漢字にすれば「大韓民国」。
日韓共同開催のサッカーワールドカップの際、「テーハンミングク」の応援コールはよく聞いた覚えがある。

チマチョゴリを着ての記念撮影をする写真館もある。
建物が、いかにも韓国風の造りだ。
コリアタウン市場と書かれた場所には、たくさんの人たちで賑わっていた。

大通りの看板も2か国語で書かれている。
上野駅前の老舗のコリアタウンでも、赤坂一ツ木通り付近のおしゃれなコリアタウンでも、このような看板は見かけなかったし、これほどの韓国の物を扱う店の密集はなかった。

新大久保駅の付近。
若い女性が多いほか、日本人の団体客の姿も見かけた。東京の観光コースに組み入れられているのだろう。
私の地元に近い麻布・二の橋のあたりにも、本格キムチを売る店や、韓国の本場の味を売りにする料理屋さんがある。
近くに韓国大使館があるからだ。
でも、大久保ほどの厚みを持ってお店が集積していることはない。
ここは、日本でも有数のコリアタウンであることは間違いない。

道路沿いの地図を見ると、近くに「小泉八雲記念公園」があることを知り、訪ねてみた。
ご存知のように、「耳なし芳一の話」や「雪女」という話は、小泉八雲(1850-1904)が採集し、本にまとめて世に紹介したものだ。

公園内にある小泉八雲・ラフカディオ・ハーンの銅像。
小泉八雲はギリシャのレフカダ島の生まれ。
父はアイルランド人でイギリスの軍医だった。
20歳の時アメリカに渡りジャーナリストとして活動、40歳の時にアメリカの出版社の通信員として来日。
しかし、すぐに辞職して島根県松江に英語教師の職を得て赴任し、翌年松江士族の娘・小泉セツと結婚する。
八雲はセツの協力も得て、失われつつあった古き良き時代の日本の風俗を広く世界に紹介した。

この記念公園内にある八雲の胸像はギリシャから送られたものだ。
そして公園もギリシャ大使などからの助言を受けて、ギリシャをイメージしたものになっている。

一方、この家は、松江で暮らしていた時に借りていた家。
旧松江藩士の家で、今は国の史跡に指定されている。
いかにも八雲が気に入りそうなたたずまいだ。
実際、この家に暮らすことで日本文化への関心興味は一層深まったのではないだろうか。
しかし、小泉八雲が松江に暮らしていたのは、1年と2か月余り。
この家で暮らしたのは、わずか半年だったという。
その後、熊本の第五高等学校や神戸での暮らしを経て1896年・46歳の時、東京帝大の英文学講師の職を得て上京している。
結局、地方での暮らしは合わせて6年間だった。
そして54歳で亡くなるまでの8年間、八雲は東京で暮らすことになる。
初めは市谷富久町、この大久保の地で暮らしたのは最後の2年間だった。
こうした縁があって、現在この付近は「コリアタウンとギリシャ風の公園」という国際色豊かな地域となっているわけだ。
しかし、日本を愛し、帰化して日本人になった小泉八雲のことだ。
記念公園は、彼の愛した「和風」のほうが良かったのではないか。
「その方が、きっと小泉八雲は喜んだに違いない」そんなふうに思いながら公園を後にした。
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