もうすぐお別れ 羊蹄丸


お台場の「船の科学館」が老朽化のため、九月いっぱいで休館となり、それに伴って「羊蹄丸」の引き取り手を探しているというニュースを見た。
そこで、この日のジョギングコースは、お台場に決定。
暑さを避けて、夕方にスタートした。高速船

夕方6時過ぎ、レインボーブリッジを渡る。
伊豆七島と竹芝を結ぶ高速ジェット船が、ディナークルーズの客船をすごいスピードで追い越して行った。

羊蹄丸2
「船の科学館」付近に係留されている羊蹄丸。
昭和40年に就航し、昭和63年に青函トンネルの開通に伴って終航となった。長さは132メートル、乗客1200名余りと48両の貨車を積載できたという。

青函連絡船にはいろいろな思い出がある。昭和39年、東京オリンピックの年は高校3年生、修学旅行は北海道だった。
青函連絡船に「いるか」が並走するように泳ぎ、時折ジャンプしていた。

昭和44年、社会人になり、赴任地は北海道だった。
北海道各地に赴任する同期の6人が一緒の列車に乗って任地に向かった。
上野発「はつかり」だったと思う。夜行で、青森に着くのが真夜中、青函連絡船で函館に着いたのが早朝だった。
同期の一人が、函館駅のホームで美人を見つけて「この先、明るいじゃん」と思わず口走ったのを覚えている。

途中札幌で一泊したものの、自分の任地の釧路までは、合わせておよそ24時間もかかった。後姿・夕景

その頃、飛行機も釧路直行便はなく、帯広でいったん給油するフライトだったので、飛行機よりも青函連絡船を利用することが多かった。

黄昏の中で、新しい引き取り手を待つ「羊蹄丸」

無償だが、年間の維持費は3000万円かかるという。
引き取り手がなければ解体されると伝えていた。

羊蹄丸の中には、昭和30年代の青森駅の様子を体験できる展示があって人気だそうだ。
いずれにせよその姿を見られるのは、あとわずか。

それまでに、もう一度羊蹄丸に乗船して、お別れをしてこよう。
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なつかしい青函連絡船

私は昭和26年ころ室蘭に行き30年の春に山形に帰りました。
父の友人が亡くなり、その寺の手伝いに家族四人で行くことになっ
たのです。

小さいころなのであまり記憶はありませんが、その頃の絵を見ると
必ず屋根の上に煙突があり、むくむくと黒い煙が出ています。
道端でトウキビをゆでて販売していて、その香りも時々思い出します。

青函連絡船は海が荒れて母がひどく船酔いし、船員さんの部屋に
特別休ませてもらったのも思い出です。
私たちは昭和29年3月末に山形に無事帰ってきましたが、
洞爺丸は9月26日に沈没、その話を聞いて子供ながらにとても心を
痛めたものでした。

一年生でも小柄だった私は船・汽車の乗務員から「何年生?」と聞
かれても「幼稚園」と答えるようにいわれドキドキしてスリルを味わ
いながら帰ってきました。

No title

REIさん
洞爺丸台風は多数の犠牲者を出した台風として、私も子供心に覚えていましたが、その半年前に乗船していたんですね。
三国連太郎・左幸子の「飢餓海峡」を見ると、子供のころの思い出とリンクするのではないでしょうか。

そして、小学生になったのに「幼稚園」と答えるよう母親に言われた経験は、私にもあります。
小学生になると、子供運賃をとられるからでした。
ウソがばれるのではないかと冷や冷やしたことを、今、思い出しました。
どこの家も同じだったんですね。
プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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