墓石が沢庵の石? ~東海寺①

今日から、徳川3代将軍・家光が創建した「東海寺」ゆかりの人物や場所を2回に分けて紹介したい。

まず、家光から深く信頼された禅僧「沢庵」が今回のテーマ。
この写真からご覧いただきたい。

問答河岸

第一京浜を西に向かう。
品川駅、八ツ山橋を過ぎたところで第一京浜と別れて左の道を行く。
旧東海道だ。

旧東海道に入ってすぐの道路左手に「問答河岸跡」と書いた碑がある。

碑に並んで、昭和43年に建てられた「問答河岸由来記」がある。
衆・参両院で国会議員を務め、2000年に亡くなった宇都宮徳馬さんの手によるものだ。

こんなふうに書いてある。
家光が東海寺にやってきて、江戸城に帰る際、見送りにに出た沢庵に、こう問いを発した。
(平凡社の「東京都の地名」では、「徳川実紀」の記述をもとに、沢庵が家光を出迎えたときの話として紹介している)

「海近くして、東(遠)海寺とは是如何」

これに対して沢庵「大軍を指揮して、将(小)軍というが如し」

(この答えも「東京都の地名」には「大君にして 将軍と称し奉るが如し」とある)


いずれにせよ、今の「大喜利」のようなやり取りが、この地で行われたというわけだ。

付け加えれば、ここから左は緩い下り坂になっているが、江戸時代はすぐそこが海で、船に乗って江戸城からここまでやってきたということになる。

沢庵像

沢庵宗彭(1573-1646)は、江戸時代初期に活躍した禅僧。
幕府の寺社政策に反対したことで、出羽の国(山形県)上山藩にお預けになるが、後に許され江戸に戻る。

江戸に戻った沢庵は家光から絶大の信頼を寄せられることになり、寛永16年(1639)家光は沢庵のために東海寺を創建。
沢庵は開山として迎えられた。

夢

品川歴史館解説シート「東海寺と沢庵」によると、
「沢庵は、禅や仏教だけでなく、書、和歌、茶道、剣道、兵法、医学など多様な教養をもった文化人であった。
茶道では、千宗旦・小堀遠州、剣術では柳生宗矩・宗冬父子などの人々と親交を結んだ」とある。

吉川英治の小説「宮本武蔵」には、沢庵が武蔵の師として登場するが、ウィキペディアによると、「これは吉川英治の完全なフィクションであり、作者本人もはっきりそう述べている」と書いてある。

ただ、沢庵が柳生宗矩に与えた書の中に、「剣禅一味」と、禅で武道の極意を説いた言葉があるとのことで、似たような事実はあったのだろう。

東海寺

品川区北品川3丁目にある東海寺。
家光が寄進した梵鐘が今も残っている。

家光が建立した当時は、約5万坪に及ぶ広大な寺域を持つ大禅林だったが、その後の火災などにより、今は当時の一部を残すにとどまっている。

東海寺墓地

寺から少し離れた、JR東海道線の線路沿いにある東海寺の墓地に、沢庵の墓がある。

案内板

この説明に書かれている「紫衣事件」とは、
天皇が、大徳寺の沢庵に対して認めた紫衣着用について、
幕府に無断で行ったとして、勅許状を無効とした事件。

沢庵はこれに反発して流罪になったということだ。

墓石

沢庵というと思い浮かべるのが、漬物の沢庵。
沢庵が考案したというのは聞いたことがあるが、一体どうなのだろう。

ウィキペディアによると、東海寺には、「訪れた家光にタクアンを供したところ、たいそう気に入り『名前がないのであれば沢庵漬とよぶべし』という話が伝わっている」ということだ。

この他にも沢庵漬の由来については、いくつか説があるとのことで、

この沢庵禅師の墓石が、漬物石に似ていることに由来するというのもあるそうだ。

そう云われれば、確かに漬物石と形がよく似ている。

巨人の長嶋茂雄さんが云った言った言葉を思い出す。

「漬物のタクアンがこの世にある限り、僧・沢庵の名は永久に不滅です」
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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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