開拓使仮学校跡 ~北大の前身があったところ

都立芝公園

御成門交差点の角にある都立芝公園。
東京タワーを正面から眺めるこの撮影ポイントの少し右側に、「開拓使仮学校跡」と書かれた碑が建っている。

仮学校の碑

御成門周辺には沢山の記念碑があるが、これもそのひとつ。

「開拓使仮学校」とは北海道開拓に従事する人材を育成する機関で、政府によって明治5年に設立された。

ウィキペディアにはこのように書いてある。

「明治5年4月15日(1872年5月21日)、東京・芝の増上寺の方丈25棟を購入して開拓使仮学校が設置された。北海道開拓に当たる人材の育成を目指し、後に札幌に移して規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた」

その後、開拓使仮学校は札幌農学校になり、今の北海道大学へと続くことになる。

方丈とは、寺院の住職が生活する建物のことだ。
江戸末期の地図にも増上寺方丈と載っている。

1828年文政11年

「初年度全生徒数は120名(官費生60、私費生60)で年齢により普通学初級(14歳以上20歳未満)と普通学2級(20歳以上25歳未満)に割り振り、後に専門の科に進ませた。

同年9月には女学校(官費生50名のみ)を併設した。なお、官費女学生は卒業後に北海道在籍の者と結婚することを誓わせられた」とある。

ここで、どんな教育が行われていたのだろうか。
港区教育委員会が発行した「写された港区」には、次のように書かれている。

授業内容

学科は普通と専門の2科。普通科第一は初進の青年が対象。

「皇漢学」とはヨーロッパの洋学に対して、日本固有の学術及び中国伝来の学術。
「畫学」とは、絵をかく技術。
「究理学」とは、物理学のこと。

普通科第二の
「舎密(せいみ)学」は、江戸から明治初期にかけての化学の呼称だ。

なかなか高度な教育が行われていたようだ。

そして、「試験を経て学力進歩しない場合、教官詮議の上、退校申し付ける」との内容が書かれている。
かなり進級は厳しかったようだ。

学校

この開拓使仮学校は開校から3年後の明治8年、札幌に移る。
そして翌9年8月には札幌農学校と改称し、8月に開校式を行う。

札幌農学校の初代教頭にはマサチューセッツ農科大学学長のウィリアム・スミス・クラークが招かれた。

クラーク博士

あの「Boys be ambitious」(少年よ大志を抱け)のクラーク博士だ。

クラークはわずか8ヶ月の滞在だったという。

この言葉は、札幌農学校1期生との別れの際に、現在の北海道・北広島市でクラークが発したものとされている。
しかし、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であるという記録があるのだという。

「この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味だから、クラーク自身も大志を抱いた人物だったのだろう。

碑の内容

今の札幌は人口が100万人を超す大都会、今では冬も快適に過ごすことができる。
しかし、開拓使仮学校ができた130年余り前の冬の厳しさは、想像を絶するものがあっただろう。

私も、今から40年前、道東の釧路と帯広に合わせて9年暮らしたことがある。

建物の古かった下宿では、寒さが厳しく、冷蔵庫は物を冷やすためではなく凍結を防ぐものだった。

特に、瓶に入ったビールなどの飲み物は部屋の隅に置いておくと、朝には凍結して破裂していたことが何度もあった。

札幌の中心部に残る「札幌市時計台」。
旧札幌農学校の「演武場」の建物跡だ。

生徒の心身を鍛錬するために作られた建物だった。

H196111[1]

今では、周りのビルの間に埋もれるように残るこの建物に、開拓当時からの年月の長さを感じた方も多いだろう。

開拓には、血のにじむような苦労がたくさんあった。
私も多くの先人から、当時のことを聞いた思い出がある。

札幌市時計台を訪ねた方、くれぐれも「がっかりの観光名所」と言わないように。

元北海道民からのお願いだ。

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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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