御成門交差点で見つけた記念碑

日比谷通りの御成門交差点。
芝公園から内幸町に向かって、交差点の手前右側に、地下鉄三田線の出入り口がある。その東側、建物に沿ったところに小さな案内板が立っている

案内

写真の左下に小さく見える。
日本で最初の伝染病研究所である「北里研究所」の前身が設立された場所なのだ。

北里研究所

明治25年、慶応義塾の創始者・福沢諭吉の援助などがあり、北里柴三郎によってこの地に建てられた。

愛知県の犬山市にある明治村で、北里研究所に関する資料を見つけたので紹介したい。

明治村の北里研究所

これは、明治村に保存されている「北里研究所本館・医学館」。
大正4年に港区の白金三光町に建てられたものだから、明治25年の設立当初のものではない。
昭和54年に解体され、この地に移設されたが、この建物の中に研究所の歩みが展示されていた。

北里柴三郎

北里柴三郎(1852年・嘉永5年 12月20日~1931年・昭和6年12月20日)は、ペスト菌を発見した世界的な医学者として広く知られる。
この写真はドイツに留学し、コッホに師事し研究していた明治22年に撮影したもの。
破傷風菌の培養に成功した37歳の頃だ。

僅か10坪の建物

北里は、明治25年に日本に帰国。

「世界の北里」の才能が日本において埋もれるのを憂えた福沢諭吉が援助して、芝公園に伝染病研究所を設立する。

僅か10坪の建物だったという。

愛宕に移転

2年後の明治27年、手狭になった芝公園の建物から、芝区の愛宕町に建てられたこの建物に移転。
明治30年の地図を見ると、この建物は、ちょうど今の芝郵便局のところに建っていた。

この年には、ペストが流行していた香港に派遣され、7日間でペスト菌を発見するという世界的な偉業を成し遂げている。

北里研究所は当初、私立として設立されたが、明治32年には内務省の所管になり、大正3年には文部省に移管されることになった。

「研究成果はすぐに国民の保健に役立てられるべきである」という姿勢に誇りを持つ職員一同は失望し、全員が辞職願を出したという。

そして北里は翌大正4年に、白金三光町に北里研究所を開所する。

北里は、同じ年、済生会病院の初代院長にも就任している。

更に福沢諭吉没後の大正6年、福沢との縁から慶応義塾の医学科設立にも尽力し、公衆衛生学の講座を北里一門が担当した。
北里は、福沢諭吉の恩義に報いるため、終生無休で慶応医学部の発展に尽くしたのだという。

北里の揮毫

これは、北里が揮毫した書。
「一生懸命頑張れば、いつかは成功する」とのことだ。

「苦労を耐えてこそ男子である」という言葉に、反省させられる。

きっと、北里自らの体験の中から生まれ出た言葉なのだろう。

野口英世の序文

1000円札に描かれている野口英世は弟子筋にあたり、野口らが書いた翻訳書の序文を北里が書いている。
野口は北里より23歳年下。
世界的な業績を残した二人が、同じ研究所にいたことは興味深い。

野口は伊皿子に住んでいた

そして、
もう一つ興味深いこと。
この当時の野口英世の住所が、芝區伊皿子町となっていることだ。

調べてみると、現在の三田3丁目、伊皿子坂の途中のあたりだ。
私の通った中学校の近くに住んでいたというのは、新たな発見だった。
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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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