明治村にある床屋さん

奈良マラソンから帰る途中、愛知県犬山市にある「明治村」に行ってきた。

「明治村」ができたのは昭和40年。もう半世紀近くも前のことになる。

戦災や震災で明治建築の多くが失われ、さらに戦後の高度経済成長による再開発が多くの建造物を取り壊してゆく中、初代館長で建築家の谷口吉郎の提唱によって生まれた。

明治村の中

広大な敷地の中に60余りの建物が移築され、明治という時代の空気を今に伝えている。
「坂の上の雲」をはじめ多くの映画やドラマの撮影に使われているとのことだ。

しかし、ともかく広い。村内を移動するためのバスも走っている。

朝10時から午後3時半までじっくり建物を見て回ったが、歩いた距離は万歩計で19キロにも達した。
それでも、ほとんどが駆け足の見物で、じっくり見て歩くには2-3日が必要だ。

印象に残った建物のいくつかを何回かに分けて紹介しよう。

初めに紹介する建物はこれだ。

喜之床

これは、ごく普通の民家。
看板がかかっている。
右から読んで「喜之床(きのとこ)」と書いてある。

二階に人影が見える。アップにしてみよう。

2階の人影は

おわかりだろうか。

そう、石川啄木(明治19・1886年2.20~明治45・1912年4.13)だ。
この建物は現在の文京区本郷2丁目にあった床屋さん、つまり理髪店。

啄木は、この床屋さんの2階を借りて一時期、暮らしていた。

とてもしゃれた作り

店内は、今とそれほど変わらない。

大きな鏡、しっかりした作りの椅子など、とてもモダンな感じがする。

啄木は19歳で結婚し、妻子を岩手に残してひとり北海道に旅立ち、函館、小樽、釧路の地方新聞社の記者として暮らすが、この間函館に妻子を呼び寄せている。

しかし22歳の時、作家を志して再び単身で上京する。

それから亡くなるまでの4年間に住居を4回も変えている。
いずれも本郷の近辺だ。

ここの2階は二間あり、岩手から母親と妻子を呼び寄せ、のちには父親もここで同居している。

蓋平館

北海道から上京して最初に住んだのは「赤心館」という下宿。
そこでは小説5編を執筆したが売り込みに失敗、収入の道なく短歌を作ってその苦しみを紛らせていた。

「東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて蟹とたはむる」は、その当時に作られた句だという。

そして、そのあとに暮らしたのが、ここ本郷の新坂にあった「蓋平館」という下宿。
(ここからは、私の都内のジョギングの際に撮った写真なのでご注意)

現在は「太栄館」と名前は変わっているが、建物の前に案内板が立っている。

赤心館の下宿代が滞り、親友の金田一京助に救われてここに移ったという。
3階の3畳半の部屋に入り、「富士が見える」と喜んだそうだ。
もちろん、今はビルが林立して富士山を見ることはできない。

そしてここに暮らしていた時に、啄木は朝日新聞社の校正係として定職を得る。

そして啄木は、写真の「喜乃床」に移り、そこに家族を呼び寄せることになる。

「喜乃床」で1年2か月間暮らした後、今度は文京区小石川の借家に引っ越した。

・終焉の地

小石川の播磨坂の近くのこの場所に越してきたのは明治44年の8月、この地での暮らしも長くはなかった。

啄木は翌年の明治45年4月13日、この地で結核のため亡くなる。
26歳の若さだった。

住まいがあった場所に立つ建物の壁に「啄木終焉の地」と書かれたプレートが埋め込まれている。

「父や妻、友人の若山牧水が看取った」と書いてある。

近くの播磨坂

「終焉の地」から間近な小石川の播磨坂は桜の名所だ。

この写真を撮ったのは6年前の4月10日。

啄木が亡くなったのは4月13日。

啄木の命日には、毎年こんな花吹雪が見られるのかもしれない。


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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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