服部半蔵の墓で見たもの

半蔵門

新宿方面からの甲州街道が皇居の周りを巡る内堀通りとぶつかるT字路、そこにあるのが江戸城の半蔵門だ。

もちろん半蔵とは、あの服部半蔵のこと。
半蔵の屋敷が門前にあったことから「半蔵門」と名付けられたという。

半蔵門からの眺め

皇居のジョギングコースでは、この付近が一番高い場所。

少々つらい上りが終わって下りに向かう地点だ。
元気が出ると同時に、コースの中で一番きれいな景色が楽しみな場所だ。

いつも美しい

四季に応じて、美しい風景がいつも広がっている。

この日は、斜面の緑と青い空、白い雲がとてもきれいだった。

ところで、服部半蔵という名は、服部家の歴代当主が名乗る通称名で、私たちがよく知っている半蔵は2代目の正成という人だ。

正成の父は伊賀の出だが、正成は若いころから徳川家康に仕えて掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねた。

天正10年(1582年)、信長の招きで家康が少数の供のみを連れて上方を旅行中に本能寺の変が起こる。
このとき家康は堺に滞在していたが、先祖の出自が伊賀である正成は伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し彼らに警護させて一行を安全に三河・岡崎まで護衛した。

彼らは後に伊賀同心、甲賀同心として徳川幕府に仕えている。

正成は知行8000石を与えられ、慶長元年11月4日(1596年12月23日)に亡くなった。享年54.
関ヶ原の合戦の4年前のことだ。

半蔵の墓

これは、新宿区四谷の西念寺にある正成の墓。

実はこの墓の奥に、正成が生前に建立していた供養墓がある。

信康の墓

これが、その供養墓。

岡崎三郎信康・・・・家康の長男で若い頃から勇猛果敢であったと伝えられる。

この寺に信康の供養墓があるのは、一体どんな事情があるのだろうか。

天正7年(1579年)信康は、織田信長に武田勝頼と内通していると疑われ、遠江国二俣城で自刃を命じられた。その時、信康20歳。

半蔵は検使につかわされ介錯を命ぜられたが、「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って落涙し、介錯をすることが出来なかった。


家康は「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかった」と正成をより一層評価したという。


正成の墓がある西念寺は、正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した寺・浄土宗寺院・安養院の後身なのであった。

服部半蔵をモチーフとするキャラクターは、伊賀の影丸、サスケ、忍者ハットリくん、ゲーム・信長の野望シリーズなど数限りなくあるということだが、その人間像についてはほとんど知られていない。

もちろん私もその一人だが、このエピソードに触れて、服部半蔵正成の人間性の一面を垣間見た感じがした。

介錯という役目を果たすことのできなかったところに、半蔵の「心根」と「戦国の世の切なさ」を見る思いだ。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
スポンサードリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR