イタリア大使館の思い出

イタリア大使館
港区三田2丁目にあるイタリア大使館。

イタリア大使館と私が通った赤羽小学校は、隣組といってもよいほど近いところにある。

江戸末期・弘化3年(1846年)の地図を見てみよう。
現在の建物を、少し書き加えてみた。

地図・江戸

現在の慶應義塾大学の場所は、九州の肥前島原藩の中屋敷があった場所。
地図の右隣り(方角では北隣になる)は、忠臣蔵の赤穂義士が、本懐を遂げたあと預けられた4つの大名屋敷のひとつ、伊予松山藩の中屋敷があったところだ。
その一部が現在のイタリア大使館だ。

赤羽小学校は、久留米藩の上屋敷があった場所にある。
都立三田高校や、済生会中央病院も同じ敷地内だ。

赤羽小学校には、大使館の中で働く日本人の家庭の子供も、私のクラスの一人を含めて何人か通ってきていた。
同窓生の中にはそうした子供と友達になって、大使館内でよく遊んだと話す仲間も多い。

私のクラスの子は女の子だったので、私は残念ながら大使館の中へ入って遊ぶことはなかった。

だから、大使館の中にある赤穂浪士の顕彰碑を見たことはなかったのだが、先日NHKの「ブラタモリ」で初めてみることができた。

赤穂義士顕彰碑
立派な碑だ。
当時の駐日イタリア大使が、昭和14年に建てたものだという。


イタリア大使が作る
徳富正敬とあるのは徳富蘇峰、
碑の揮毫は彼の手によるものだ。

番組に登場したイタリア大使は、「イタリア国内でも、忠臣蔵の話はよく知られている。
日本における英雄伝説の象徴が公邸にあるのは、とても光栄なこと」と話していた。

安兵衛の墓
この屋敷で切腹したのは大石内蔵助の子供の大石主税など10名。

これは、赤穂浪士の中でも特に人気の高い堀部安兵衛の墓。安兵衛もこの屋敷に預けられた。

堀部安兵衛は仇討急進派。お家の再興を第一に考えて慎重な大石内蔵助との間で、当初は厳しい意見の対立があったらしい。

ウィキペディアにはこう書いてある。

「元禄14年11月10日(1701年12月9日)、大石良雄(内蔵助)と堀部武庸(安兵衛)は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談に及んだ。大石は、一周忌となる元禄15年3月14日(1702年4月10日)の決行を武庸に約束して京都へと戻っていった。

しかし帰京した大石は主君浅野長矩の一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。再び大石と面会するために武庸は、元禄15年6月29日(1702年7月23日)に京都に入った。事と次第によっては大石を切り捨てるつもりだったともいう。しかしその後、浅野長広の浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となった。ここにきて大石良雄も覚悟を決めた。京都円山に武庸も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した」

安兵衛にとって三田は「大石との会談、そして切腹の地」と、深い縁があった土地だったのだろう。


浪士たちを預かった当時の伊予松山藩主は松平定直。
「浪士たちへの対応で、世間からは厳しい目で見られていたようだ。

ウィキペディアにこうある。

「この頃、病床にあった定直は江戸城への登城ができず家臣を通じてこの命令を受けた。元禄16年1月5日(1703年2月20日)になって浪士達と会見。会見の遅れへの謝罪と仇討ちへの称賛を送り、「もっと大歓迎をしたいところだが、幕府からのお預かり人であるためできない。しかし諸事不自由はさせない。用事があれば遠慮なく家臣に申し付けてくれてかまわない」と述べている。但し、松平家の浪士達への待遇は大石良雄らを預かった細川綱利に比べ劣ったようで、「細川の 水の(水野忠之)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」(当時の狂歌)と江戸の武士や庶民からは批判された」

しかし、ここでの浪士たちの扱いは、落首で批判されたようなものではなく、丁重な扱いであったようだ。

「当時としては稀な罪人扱いでは無く、縄も格子もかけられず、邸内なら散策も自由に出来たという。また、2汁5菜に加え夜食や寝酒など相当なご馳走攻めに辟易した様子を記した預かり先の記録も有名」との記述がウィキペディアにあった。


ここで切腹をした大石主税良金は、討ち入りに参加した者の中での最年少で、数え年で16歳。
「切腹当日は将として最期まで扱われ、真っ先に切腹し首実検を受けた。若年にも関わらず堂々として余裕ある態度に、検視役人が泣いたという逸話がある」とのことだ。


ところで、イタリア大使館では、もう一つ話がある。

イタリア料理の普及の功労者

この本は、日本に本格的なイタリア料理を紹介するとともに、その普及に大きな貢献をした堀川春子さんの90年の人生を記録したもの。

実は、先ほど紹介した私のクラスメートのお母さんだったのだ。
ほんの数年前まで、彼女のお母さんがそんなに有名な人とは知らなかった。

春子さんの経歴を簡単に紹介する。

港区芝公園に生まれた春子さんは、しつけの厳しい母親に反抗して、昭和7年、15歳でムッソリーニ政権下のイタリアに渡る。
たまたま新聞の求人欄に「求む イタリアでの住込み家政婦 外務省」とあったのを見て応募したのがきっかけだった。

イタリア大使館付きの通訳官の家庭の世話をするのが仕事で、イタリアでの生活は6年を数えた。
そしてその間に、イタリア語とイタリア料理を身に着けて日本に戻ってきた。

そして、戦後間もなく三田のイタリア大使館で働くようになり、大使館内のパーティを手伝う中で更にイタリア料理を習得してゆく。
宿舎


そうした中、本格的なイタリア料理店を計画し、そのための人材を探していた伊勢丹から春子さんに声がかかる。
昭和37年、伊勢丹の地下に「カリーナ」をオープン。
昭和42年には白木屋に「サンレモ」
昭和46年には表参道に「トスカーナ」と、伝統的なイタリア料理を提供するレストランの立ち上げと運営に、中心となって活躍した。

昭和30年代といえば、スバゲッティといえば、日本国民のだれもがトマトケチャップべースで味付けしたものしか知らない時代だった。
その中、春子さんはトマトケチャップで作るナポリタンを店で出すことはなかった。

今では普通になったトマトソースのスパゲッティなど、伝統的なイタリア料理の紹介にこだわった。

カリーナのメニュー
カリーナのメニュー。
ミートソース 250円というのが時代を感じさせる。
東京オリンピック前の時代に「ボンゴレ」という言葉を知っていた人など、ほとんどいなかった。

こうして、伝統的なイタリア料理を提供する中で、多くの人が春子さんの味のファンになっていった。
「ヒデとロザンナ」のロザンナはよく店を訪れ、春子さんを「日本のマンマ」と慕ったという。

昭和48年には「イタリア料理研究会」を作り、イタリアでの料理研修ツアーの実施などを通じて、料理人の育成にも大きな役割を果たした。

昭和61年には、イタリアと海外との交流に貢献したとして、イタリア政府から「カヴァリエーレ(騎士勲章)」を受章している。

この本の作者の土田美登世さんによると、「平均的なイタリア料理店のクオリティは、イタリアよりも日本のほうが高い」と、あるイタリア人が語ったという。

その評価の背景で、春子さんが世にまいた種が大きく貢献していることは間違いない。

日本人で最初のイタリア料理人とされる堀川春子さんの歴史も、イタリア大使館の歴史の一ページとして記憶していきたい。
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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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