慶応仲通りも 忠臣蔵ゆかりの地だ

慶応通り振興会
田町駅から、「慶応仲通り」を目指す。
看板が「慶応通り振興会」になっている。

昔の仲通り
「慶応150年史」に載っている昭和62年の写真を見てみた。
写真の説明は、やはり「慶応仲通り」となっている。

通りの名前は変わったわけではなさそうだ。

昔から知っているのは

変わったといえば、通りの両側に並ぶお店はすっかり変わった。
私が若いころからあったお店で今も残っているのは、たぶん、慶応の制服を扱っているこの洋服屋さんだけだろう。
三田通りも含めて、こうした洋服屋さんはあと2件あったと記憶しているが、残っているのはここだけになった。

昭和40年代初期、私が大学生の頃は学生服を専門に着ていた。
当時一部の学生たちの間ではアイビールックが流行っていたが、私には全く縁がなかった。
周りにも、そんな学生は少なくなかった。

今、学生服を着ている大学生は、神宮球場の応援団ぐらいしかいないのではないか。
いや、応援団でも着ているのは少ないかも。
学生の衣服環境が大変貌する中で、今日までお店を続けておられることに敬意を表したい。

古地図

さて、これは、1846年(弘化3年)の地図。

画面の真ん中のところに水野と書かれた屋敷が描かれている。
討ち入りの後、9人の浪士が預けられた水野監物邸があったところだ。

その下に「慶応仲通り」の道があるのがわかる。

その当時の水野家の当主・水野忠之は岡崎藩主、のちに吉宗が将軍の頃には老中として享保の改革を支えた人だ。

案内板
田町のほうからこの通りに入って50メートルほど行くと、道が少し左に折れる。その右手のところに、水野邸があったことを示す案内板が立っている。

案内板には、「水野家は、細川家とともに元赤穂藩士たちの取扱は丁重で世評もよく、
細川の 水の流れは清けれど ただ大(毛利甲斐守)の(松平隠岐守)ぞ濁れる』という落首がその状況をよく伝えている」と書かれている。

ここに預けられた9人のうちよく知られているのは、矢頭教兼(右衛門七)と神崎則休(与五郎)の二人。

矢頭墓

矢頭教兼は、討ち入りに加わった者のうち大石良金(主税)に次いで若く、享年18。
舟木一夫が若い頃に、演じた記憶がある。

討ち入りの年に父が亡くなり、あとに残すことになる母と3人の妹のことで困難を抱えたが、討ち入りの後、母は親族に迎えられ、妹たちも嫁に行くことができたという。

神崎墓

神崎則休は、俳人として才能が有り、大高源吾や萱野三平と並び浅野家の三羽烏と呼ばれていた。
吉良の動静を探るため、麻布谷町(現在の六本木2丁目、久國神社のあたり)で扇子屋を開業したという。

単純だが、麻布と聞くとまた親しみが増す。
享年38。

ウィキペディアによれば、「扇子屋は役者が内職ですることが多く美男のイメージが強かったことから、神崎は美男子だったのではないかといわれる」とある。

辞世は「梓弓 春近ければ 小手の上の 花をも雪のふぶきとや見ん」

近くを通ったら、彼らのことを思い出してやりましょう。
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No title

<span style="background-color:#FFFF00;">慶応仲通り</span>の昭和62年の写真に写っているポンソアールという個人経営の喫茶店2は、会社の同僚と外で昼飯のあとよくいったものでした。個人経営としてはかんがえられないほど美味しい珈琲だったのを思い出しますが、今はもうなくなっているのでしょうね。
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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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