赤穂浪士の墓所に 48の墓がある


泉岳寺
港区高輪にある泉岳寺。赤穂浪士たちの墓がある寺として知られる。
今年も義士祭が近づいてきた。

私の通った中学校は泉岳寺の近くにあったので、毎年12月14日の討ち入りの日に行われる義士祭には昔から行っていた。

大石像
先日、数年ぶりに訪れたら、入ってすぐのところに大石内蔵助の像が立っていた。

墓所入口
墓所へ向かう道はきれいに整備されていたが、参道が一方通行なのは昔と同じだ。
12月14日には、お参りの人でこの道は埋まり、長い列ができる。

配置図
墓所の様子は、昔と変わらない。
浅野内匠守と奥方の墓が向かって右側に、左側には、切腹の際に預けられた大名家ごとに義士たちの墓が並んでいる。

義士たちの墓所には47のはずなのに、数えてみると48の墓がある。

実は、討ち入り後に切腹したのは46人。後の2人については「供養墓」であると、説明に書いてある。

その二人とは、寺坂吉右衛門(信行)と萱野三平(重実)だ。
どんな事情があったのだろうか。ウィキペディアなどで調べてみた。

寺坂墓
寺坂吉右衛門は、吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属していた。
ところが、本懐を遂げ一行が泉岳寺に着いたときにその姿はなかったという。

何故なのか?
これについては、これまで次の3つの有力な説が語られてきた。

1.討ち入り直前に逃亡した
2.密命を受けて、一行から離れた
3.士分ではなく足軽身分が加わっていたということから、公儀に憚りあるとして逃がした・・との3説だ。

最後の忠臣蔵
池宮彰一郎の小説『最後の忠臣蔵』は、以前NHKの金曜ドラマになったり、最近では映画化されて評判になったりしてご存知の人も多いだろう。
この中で寺坂は、大石から「首尾を国元に伝え、浪士の遺族を援助せよ」との密命を受け、一行から離れたたのだと描かれている。

寺坂吉右衛門については、討ち入り後に、赤穂での目撃記録や、浪士の家族を尋ねている記録があるのだという。
そして、幕府からは一切のお咎めがなく、天寿を全うしている。
こうしたことから、世間では早くから寺坂を義士の仲間と見る考えが有力だったのではないか。

泉岳寺に供養墓があるのは、世間のそうした考えを反映しているのだと思う。

供養墓には行年が記されておらず、戒名は「遂道退身信士」とある。
道を遂げて、身を退いた・・と読める。

密命説を思わせる戒名だ。

ところで、この「最後の忠臣蔵」には、もう一人の主人公がいる。
大石内蔵助の家臣で、討ち入りの2日前に姿を消した瀬尾孫左衛門だ。

実は瀬尾孫左衛門も、内蔵助の隠し子(娘)を立派に育てるようにとの密命を直々に受けていたというのだ。
武士の身分を捨て、裏切り者の立場に身を起きながら、立派に大石の遺児を育て上げる孫左衛門。
泣かせるストーリーだ。

しかし、瀬尾孫左衛門の供養墓は泉岳寺にはない。

ウィキペディアには、このように書かれている。
「その(瀬尾が姿を消してから)後の消息は不明であるが、一説には赤穂に戻り、剃髪して休真と号したという。討ち入りから間もない元禄16年(1703年、ただし年号は推定)2月26日に大石の妻理玖が「休真」に送った手紙の写しとされるものが『赤穂義人纂書』に収められていることからすると、寺坂と同様、瀬尾の逐電も単純な「逃亡」ではない可能性がある」・・とのことだ。

曹渓寺
港区南麻布、古川橋の近くにある曹溪寺。
寺坂吉右衛門は晩年の一時期ここで寺男として働いていたこともあり、墓もここにある。
享年83。

墓は公開していないとのことで、見ることはできなかった。

萱野墓
もう一つの供養墓は歌舞伎の「お軽、勘平」のモデル、萱野三平のもの。
右は大高源吾の墓。その左隣がそうだ。

萱野三平は「松の廊下」での刃傷を早駕籠で赤穂に伝えた人だ。
途中、偶然自分の母親の葬列にあったが、お家の大事と母親の顔を見ることもなく、涙ながらに赤穂へ向かったとのエピソードが今に伝わるという。

赤穂に着いた三平は大石内蔵助の義盟に加わるが、赤穂城の開城後、父から、吉良家とつながりの深い旗本への仕官を勧められる。
親と同志との板挟みになった三平は、討ち入りから11か月前の元禄15年1月14日、約束を果たせぬことを同志に詫びて自刃した。
享年28。

俳諧の技量を当時の俳諧人に広く認められていたという萱野の辞世。
「晴れゆくや 日頃心の 花曇り」

死ぬことで仲間への証がたてられ、心が晴れやかになるようだ、ということなのだろう。

隣の墓に眠る大高源吾も宝井其角との交流話など、俳諧の世界でも知られた人物だった。

切腹を命じられた元禄16年2月4日(新暦では3月20日)、こんな辞世を残した。

「梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山」

これから死出の旅に出るが、桜には少し早い今の時期、あの世にも梅を愛でながら酒を飲む茶屋がきっとあるだろう。・・・やるべきことをやった後の、晴れ晴れとした思いが伝わってくる。

義士たちが見事な辞世を残した背景には、こころを句に表現する「たしなみ」を身に着けていたことがあるのだが、それ以上に大きかったのは、義士たちが「日々、死を意識して生きた」ことにあったのだと思う。


大石
すべてに用意周到で、大事を成し遂げた大石内蔵助。

寺坂、瀬尾の二人に密命を与えていたのかどうか、今も謎のままだ。

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め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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