「1日中山道」を走る

巣鴨地蔵通り

今回走ったのは、「旧中山道」。

「旧中山道(きゅうなかせんどう)」を「一日中山道(いちにちじゅうやまみち)」と、ある民放の女性アナウンサーが読んでしまったというエピソードは、今も誤読の最高傑作として語り継がれている。

どんな人でも知らないことはあるし、知っていても間違えてしまうこともある。

常に謙虚であるべく、自戒の念を込めて、今回のタイトルにしてみた。

ここは、「じいちゃん・ばあちゃんの原宿」として知られる巣鴨の地蔵通り商店街の入り口。

いつ訪ねても、多くの人たちで賑わっている。

実はこの通りが、旧中山道。
この通りの右側を並行して走る「白山通り」が中山道と思って走ったが、家に帰ってから地図で調べたところ、この道が旧道だった。

この道をまっすぐ進むと、暫くして、中山道の第一宿があった板橋にたどり着く。

板橋

地名の由来ともなった「板橋」。

石神井川に架かる橋だ。

中山道の第一宿

日本橋から「二里二十五町」余りとあるから、約10.6kmほど。

板橋宿は、江戸に近い方から平尾宿、中宿、上宿の三宿があって賑わったとのことだが、今も通りに沿って商店街が並び往時の様子を偲ばせる。

江戸の風情を残す家

この建物の右側は、どうやら不動産屋さんのよう。

左側のお宅の前には、お米の自動販売機が立っていた。

銭湯の横を入ると脇本陣

この銭湯も堂々たるたたずまい。

建物の右に道路があり、この先に「脇本陣」があったとの案内があったので入ってみた。

集合住宅が立っていた

「脇本陣」の建物は今は無く、その場所には集合住宅が立っていた。

近藤勇が幽閉されていた

建物の前には案内板が立っていて、次のようなことが書かれていた。

”脇本陣が置かれた豊田家は、平尾の名主を務めた家。

文政4年(1821)、中山道を経由して、江戸での興行に向かっていたペルシャ産のラクダを一目見ようと多くの人々が押しかけたという記録がある。

そして、慶応4年(1868)、新政府軍にとらえられた新選組の近藤勇が、平尾一里塚で処刑されるまでの間、豊田家に幽閉されていた”という。

近藤勇は、板橋で処刑されたことは聞いていたので、交番でゆかりの地を尋ねると、JR埼京線の板橋駅の前に近藤勇の供養塔があるとのこと。

近藤勇の墓所

供養塔は、板橋駅の滝野川口のすぐ前にあった。

説明には、

「処刑された近藤の首級は京都に送られ、胴体が、刑場より少し離れたこの地に埋葬された」

「この供養塔は、明治9年5月、隊士の1人てあり、近藤に私淑していた永倉新八が発起人となって造立された。

永倉は、戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分かったが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられている」

と、記されている。

土方歳三の名前もある

供養塔には、函館・五稜郭で戦死した新選組副長・土方歳三の名前も刻まれている。

永倉新八らが発起人に

敷地内には、永倉、土方、近藤 3人の肖像画も飾られていた。

一番左が、この供養塔造立の発起人であった永倉新八。

永倉は、元治元年(1864)の池田屋事件では、近藤、沖田総司らと共に池田屋に突入している。

池田屋事件は新選組の勇名が天下に轟いた事件として知られるが、今年は事件からちょうど150年を数える。

永倉新八墓

永倉本人の墓も、この敷地の一角、供養塔を見守るようにしてあった。

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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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