紅灯の巷の記憶


南大通

釧路市南大通り。

明治41年の冬、石川啄木が釧路新聞社の記者としてこの町にやってきた当時、この南大通りが繁華街だった。

啄木の下宿跡やひいきにした料亭なども、この一帯にあった。

この付近の商店街の現在の名称は「啄木通り商店街」。

この南大通りを啄木の道として市民や観光客に再認識してほしいと、大通りの愛称も「啄木通り」と呼んでいる。

今年9月に開かれる「国際啄木学会」釧路大会を前に、啄木の肖像と、歌を記した幟が大通りの各所に飾られている。

しかし今、買い物客は郊外の大型店に流れ、この付近で人影を見ることはほとんどない。

釧路港修築碑

南大通りを直進して、市内を一望する米町公園を訪ねた。

ここには啄木の歌碑も建っていて、去年紹介した(http://golby.blog.fc2.com/blog-date-20120730.html)が、これは啄木が釧路に来た翌年・明治42年3月に建てられた「釧路港修築碑」。

碑の横に立つ説明には
「この年、かねてより懸案の港の修築予算が国会を通過し、釧路市民は大いに喜こびました。

この年は、桜田門外の変から50年、特に滋賀県から移住した人々が、港の修築も彦根藩主であった井伊直弼の遺徳とし、この街がさらに発展することを夢見てこの碑を建てました」と書いてあった。

井伊直忠


石碑には、伯爵 井伊直忠 の名前が読めた。

釧路には、佐賀や鳥取からの移住者がいたのは知っていたが、滋賀からの入植者もいたのを知った。

市内最古の木造家屋

米町公園の近くには、市内で最も古い木造民家が残っている。

店舗と住宅を兼ねた商家で、明治33年(1900)築だから、建ってから110年余りにもなる。

付近には、厳島神社をはじめ、多くの寺が散在し、釧路の開拓の歴史を今に伝えている。

昔、遊郭があった

米町の高台から、道路の先に海が見える。

今から40年余り前、この付近には、開拓当初の歴史を伝える他の建物がまだ残っていた。

遊郭だ。

その頃(昭和40年代)に、太平洋戦争前まで遊郭をしていたという老人に話を聞いたことがあった。

その人は「四海波」という店をやっていたので、いったいその店がどこにあったのか、年配の人を見かけては尋ねてみた。

今は住宅地に

何人かの人に聞いて、昔遊郭があったという場所を訪ねたが、建物はすでになく、道路も新しくなっていて、住宅街に変わっていた。

遊郭をしていたという老人は、昭和初期、冷害の大凶作に見舞われた東北地方の農村に行き、いわゆる「人買い」をしたと話していた。

開拓の陰に、貧しさの中で苦界に沈む女性たちの「負の歴史」があったということも、忘れてはならないだろう。

ケアハウスのお年寄り

海沿いの老人ホームの入り口にお年寄りがいたので、このあたりの昔の様子を聞いてみた。

右側の女性は95歳とのこと。

昔、遊郭があったことは知っていたが、詳しくは覚えていないようだった。

ただ、「この老人ホームがある場所も、昔は遊郭があったと聞いている」と話してくれた。

啄木歌碑

老人ホームのすぐ横、太平洋の波が打ち寄せる浜の近くに、啄木の歌碑が建っている。

「さらさらと 氷の屑が波に鳴る 磯の月夜の ゆきかえりかな」

いかにも、啄木が体感した釧路の厳冬の海が思い浮かぶようだ。

そしてこの時、啄木は 米町にあった「紅灯の巷」もまた、その目にとめていたはずだが、

今は昔の物語だ。
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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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