上野・不忍池で、「カナリヤ」の歌碑を見つけた
これは、上野不忍池の周りに作られた競馬場を描いたもの。
競馬場は明治17年(1884)に建設され、明治25年まで8年間にわたり春と秋に競馬が開催された。
不忍池は、地図の左側。
不忍池は、「ハス池」、「ボート池」、上野動物園の一部である「鵜の池」の3つに分かれている。
先の戦争の後、一部は水が抜かれて水田になり、跡地に野球場建設案なども出されたが、
昭和24年、池のままの保存で合意され、今日に至っている。
ここは、ハス池周辺の散策路。
ハス池にはハスの花が密集して生息していて、冬場の今はハスの枯れた幹が池を覆っている。
不忍池には、9月になるとシベリアなどの北国から、いろいろのカモが渡ってくる。
多い時には1万羽を超えることがあると案内板に書かれていた。
この日、暖かな日差しを浴びて、不忍池の鳥たちが、地上に上がって日光浴をしている姿が見られた。
ボート池でも、こうして杭の上に一羽ずつ止まって、日光浴に余念がなかった。
ハス池沿いの道路わきに、碑が建っている。
西條八十の童謡「かなりや」の歌碑だ。
「歌を忘れたかなりやは…」の詞で知られる名作だ。
西條八十(1892・明治25~1970・昭和45)は象徴派の詩人で、歌謡曲の作詞家としても知られる。
「蘇州夜曲」「誰か故郷を想わざる」「青い山脈」「芸者ワルツ」「王将」といったヒット曲は彼の作品だ。
この「かなりあ」はどこか物悲しく、童謡の枠を超えてとても文学的な香りがする。
碑の裏には、詩人サトウ八ローらによる「西條八十会」によって、次のようなコメントが彫られている。
「かなりやの詞は大正7年秋、不忍池畔のアパートの一室にいた西條八十が、上野の山 東照宮あたりを散策しているうちに得られた名作である。
わが国の芸術童謡興隆となったこの作誕生の地を記念し、これを建てる」
ウィキペディアによれば、西條八十は児童文芸誌「赤い鳥」に多くの童謡を発表。
「まりと殿様」も西條八十の作品と紹介されている。
「かなりや」は西條が子供の頃、教会のなかで一つだけ消えている電灯を見て、さえずることを忘れた小鳥のような印象を受けた思い出が、作品の元になっているという。
「かなりや」
歌を忘れたかなりやは後ろの山に棄てましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたかなりやは背戸の小薮に埋(い)けましょか
いえいえ それはなりませぬ
歌を忘れたかなりやは柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたかなりやは象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
この詩の根底には、命あるものに対する優しい心が流れている。
いつまでも歌い継がれていってほしい歌だ。
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