義士祭に行く方に おすすめスポット

12月14日の義士祭にお出かけの方に、もう一つお勧めスポットを紹介しよう。
それは泉岳寺から歩いて行ける「大石良雄外一六人忠列の跡」、
簡単に言えば「大石内蔵助をはじめ合わせて17人が切腹した場所」だ。

地図
これは、泉岳寺入り口の右手に立っている看板。
高輪学園の間を通って高松宮邸のほうに進むと間もなく、目的の場所に行くことができる。

元肥後熊本藩・細川家の下屋敷があったところで、普段は門に鍵がかけられ中に入ることはできないが、8年前の義士祭の日は中に入ることができたので、写真を撮ることができた。

外観
これが入り口。
門の左右に石板に刻まれた説明が掲げられている。

説明
とても格調高く、訪問者に呼びかけている。
これほど高らかに謳い上げる説明は、あまり見たことがない。

切腹者
17名の中には、堀部安兵衛の義理の父・堀部彌兵衛の名前が見える。江戸時代の77歳は、今でいうと90歳ぐらいの感じではないだろうか。見事というほかない。

また、赤埴源蔵との名が見えるが、これは「あかばね げんぞう」と読むのだそうだ。
あの「徳利の別れ」で知られる人物だが、てっきり「あかがき げんぞう」と思っていた。
ウィキペディアによると、赤垣源蔵とは『仮名手本忠臣蔵』の中で出てくる赤埴源蔵の名前だという。
つまり大石内蔵助を大星由良之助と言い換えたように。

更に「徳利の別れ」についても、源蔵は下戸で実際とは違ったようだ。
このように書いてある。

「『忠臣蔵』の物語では、討ち入りの前夜、重賢(源蔵)は兄塩山与左衛門の家に暇乞いに訪ねるが、兄は不在だったため、兄嫁に頼んで兄の羽織を出してもらい、羽織を兄に見立てて酒を酌み交わし別れを告げる「徳利の別れ」の場面が有名である。しかし実際には重賢に兄はおらず、重賢自身は下戸であった。この話は、重賢が妹の嫁ぎ先の阿部対馬守家臣田村縫右衛門の家に暇乞いに訪ねた逸話が変じたものである。重賢は縫右衛門の父から美服を着ていたことを咎められ、赤穂の浪人たちに仇討ちの動きがないことを罵倒された。重賢はただ遠方へ向かうので暇乞いに来たとだけ告げて、差し出された杯を受けて辞去した。その後、縫右衛門たちは赤穂浪士が吉良屋敷へ討ち入り、仇討ちを遂げたことを知り、重賢の真意を汲み取れなかった事を悔やんだという。

更に付け加えれば、朝日日本歴史人物事典には、「主家断絶後は、江戸浜松町に住み・・」とあるから、その近くに住む私には、いっそう親しみが湧いてくる。

内部
中に入ってみよう。
当時の庭の一部を仕切った空間なので、どちらかといえば狭い。
ただ、大きくて見事な石がいくつかあり、当時は立派な庭であったことがうかがえる。

降り積もった落ち葉にいっそう無常を感じたことを覚えている。

大石の辞世は、「あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」とあるから、
きっと慫慂として死出の旅路についたのだろう。

(ウィキペディアには、辞世の句として「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」とする説もあるとしている)
椎の木
熊本藩の下屋敷内にあったシイの大木が近くにある。

東京都の天然記念物に指定されている。

樹齢は300年以上とあるから、大石切腹の頃にはすでにあった。
大石たちの目に触れることもあったのかもしれない。

正義を愛し、名節を重んずる方は、是非おでかけを。

(この場所のカギを管理しているという中央義士会と港区郷土資料館に聞いたところ、今年公開する予定はない様子だった)
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プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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