そうだ京都行こう ②小倉百人一首と小倉餡

嵯峨野を歩く

紅葉見物の定期観光バスで、高雄の次に訪ねたのは「嵯峨野」。

普段は静かであろうこの地も、紅葉の季節には、こうしてたくさんの観光客が訪れる。

門前に柿

あるお宅の門前では、こうして自宅で実った柿を販売していた。

昔、山口県の萩を訪ねた時、武家屋敷が並ぶ街並みで、同じように自家製の夏みかんが門前に並んでいた風景を思い出した。

秀頼首塚

嵯峨野で最初に訪ねたのは清凉寺。

境内には、豊臣秀頼の首塚が建っていた。

昭和55年、大阪城三の丸跡地から出土したものを、秀頼が再興した由緒を持つ清凉寺に収められたとのこと。

寺の案内には「首に介錯の跡がある」と書かれていた。

清凉寺の庭園

この清凉寺がある場所は、平安時代、嵯峨天皇の皇子で、源氏物語の光源氏のモデルでもある源融の別荘があった所だという。

本殿の裏にある庭の紅葉も美しく色づいていた。

紅葉

次に訪ねたのは「二尊院」。

正式には「小倉山 二尊教院 華台寺」という。

二尊院

門にある「小倉山」の額は、後柏原天皇から下賜されたもの。

ここは紅葉の名所であるとともに、歌人とのゆかりの深い寺でもある。

西行法師庵の跡

境内にある「西行法師庵の跡」。

西行(1118~1190)は、「願はくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ」という自分の詠んだ歌の通り、桜の季節、満月の下で死んだと伝えられる。

芭蕉をはじめ多くの歌人に影響を与えた人物として知られている。

碑の横には、西行の詠んだ歌が立っていた。

「我がものと 秋の梢を思ふかな 小倉の里に家居せしより」

小倉の里に住むようになって、秋の梢がとても親しいものになったとでもいうのだろうか。

時雨亭跡

そして、二尊院の堂宇が立ち並ぶ背後、小倉山の斜面の一角に「定家時雨亭跡」がある。

「小倉百人一首」は、小倉山の藤原定家の山荘で選定されたとされる。

その山荘がここにあったと、二尊院の案内に書かれていたので、訪ねてみた。

本堂の後ろの山道を、100mほど行くと、小さな家が建つほどの平地があらわれ、「時雨亭跡」との立札が立っていた。

途中に「スズメバチ、マムシがおります。注意してください」との立札もあって、多少不気味な感じもした。

しかし、そこからは嵯峨野の里を見下ろすことができ、見晴らしはなかなかのものだった。

厭離庵の案内

但し、「時雨亭」のあった場所については、他にも説があるようで、

二尊院の近くにある「厭離庵」へ通じる道には、「百人一首ゆかりの里」はこちらだと、こんな大きな看板が立てられていた。

小倉餡発祥の地

そして、今回のテーマである小倉山と小倉餡の関係だが

二尊院の境内にこんな碑が建っていた。

「小倉餡発祥の地」

説明

碑の裏には、説明があって、次のように書かれていた。

小倉餡発祥の由来

日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間もなくの八百二十年の ことであります。

当時、このあたり小倉の里に和三郎という菓子職人がいて、亀の子せんべいを作って いましたが八百九年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から 下賜された砂糖を加え、煮つめて餡を作り、これを毎年御所に献上されました。

その後、この和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の 菓子にも用いられ、ハレの料理にも加えられるようになりました。(中略)

 平成十七年三月六日
          井筒八ツ橋本舗 六代 津田左兵衛建之

つまり、小倉百人一首と小倉餡の「小倉」は、共にここ「小倉の里」に由来するということを知ったのだった。

紅葉の馬場

二尊院の紅葉の名所「紅葉の馬場」。

平日でも、この混みよう。

新郎新婦の衣装に身を包んだ二人が、紅葉の下でポーズをとっていた。





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そうだ京都行こう ①紅葉

京都駅前

当初、神戸マラソンの翌日は「神戸市内の街並み」を散策する計画だった。

しかし、ちょうど紅葉が美しい季節、予定を変更して

「そうだ京都行こう」と決め、日帰りの観光バスを予約したのだった。

京都駅前の観光バス乗り場には、たくさんの観光客が、京都各所の紅葉名所に向かうバスを待っていた。

私の予約したのは、その日の「一番人気」だという「京都・洛西の高雄と嵯峨野」を巡るコース。

平日(月曜日)だったが、そのコースを申し込んだお客さんの数は、バス3台にも達した。

高山寺

はじめに訪ねたのは、高雄の高山寺。

「鳥獣人物戯画をはじめとする国宝、重文が1万点余りにも及び、文化財の宝庫ともいわれる」と、パンフレットに書いてある。

日本最古之茶園

境内には「日本最古之茶園」が残り、毎年11月8日に宇治の茶業家が、自家製の新茶を中興開山の明恵上人の廟に捧げる行事が行われているとのことだ。

寺全体に深山幽谷の趣があり、境内の紅葉は、まだ少し早かった感じだが、

駐車場近くの渓流沿いで美しい景色が見られた。

駐車場近くの紅葉

薄紅、黄色、緑、渓流の澄んだ深緑色。

もみじが燃えるよう

ガイドさんの話では、今年の紅葉は例年より1週間ほど早いということで、

燃えるような紅葉も見られた。

神護寺

次に訪れたのは、高野山真言宗の古刹・神護寺。

弘法大師空海が809年から14年間住持し、真言宗立教の基礎を築いた寺という。

伝源頼朝像

密教秘術の宝庫としても知られ、教科書にも載っていてとても有名な「伝源頼朝像」も、この寺に伝わるものだ。

神護寺の楼門までは、急で長い石段を、何段も上り下りしなくてはならない。

前日にフルマラソンを走ったばかりだったので、かなりきつかった。
途中、休み休みの道中となった。

もみじの天ぷら

街道筋から、いったん清滝川に下る途中、「もみじの天ぷら」を売る店があった。

色は「鮮やか」とはいかないが、各家庭でやっても面白そうだと思った。

金堂への石段

楼門から境内に入り、金堂へ向かう道も急な石段。

もし、左右に見える紅葉を「愛でる余裕」があれば、体力は十分。

燃えるような紅葉

沢山の観光客が、燃えるような紅葉の色に染まっていた。

かわらけ投げ

寺内の名所「かわらけ投げ」の場所では、右側に深く落ち込んだ谷に向かって、参拝の人がカワラを投げていた。

バスガイドさんは「次の週末は、紅葉見物の人出はピークになりそうだ」と話していたが、果たしてこの日のように日和に恵まれるかどうか。

立冬は11月7日だったから暦の上では、すでに冬。

そして、11月22日は24節季の「小雪(しょうせつ)」、わずかながら雪が降り始めるころという意味だから、本格的な冬も間近となった。

みちのくの春


福島の桜は満開

久しぶりに山形県に行ってきた。

寒河江市に住む知人のお手伝いをするためだ。

山形新幹線は、福島から東北新幹線と切り離す。

そこから先は本当の新幹線仕様ではなく、広軌のレールに敷き直した在来線のルートを走る。

従って福島までは普通の新幹線のスピードだが、福島から旧奥羽線に入ってからは、在来線の特急のスピードとなる。

これは福島駅に着く直前の風景。

福島では桜の開花は4月5日だったから、この日・13日は、まさに満開を迎えていた。

吾妻山

そして、視線を西の方に向けると、まだ雪をかぶった山並みが見える。

画面の左に見える形の良い山は、吾妻山のようだ。

3年前の5月、磐梯吾妻スカイラインを走る66キロのウルトラ・マラソンに参加したことを思い出した。

5月下旬だったが、風は冷たく、まだ沿道には雪が沢山残っていた。

でも、その寒さのおかげで、参加者の中でラストだったが、制限時間内に完走できたのだった。

5月下旬はもう暑い。

下界のように暑かったら、とてもゴールはできなかっただろう。

板谷峠

山形新幹線は、福島から板谷峠を超えて山形県に入る。

峠には、まだたくさん雪が残っていた。

「みちのく」の太平洋側の入り口が「白河の関」とすれば、日本海側の入り口の一つが、この「板谷峠」というイメージを私は持っている。

ここからが、本当の「道の奥」なのだと。

南陽市付近

福島とは、まるで車窓の風景が違って来た。

まだ冬枯れの景色が広がっている。

ここは、種なしブドウの「デラウェア」の産地として全国的にも知られる南陽市付近。

緑の色は、まったくと言っていいほど目に入って来ない。

寒河江

山形から左沢線に乗り換えて、目的地の寒河江に到着。

サクランボの産地・山形にあっても、トップクラスの産地として知られる。

致命の由来

駅前に、地名の由来の解説があった。

それによると、

時は出羽の国が置かれた和銅5年(712)頃、

現在の神奈川県海老名市にある相模国一宮・「寒川神社」の近辺からこの地に移住してきた人々が、故郷の相模川流域と似ていることから「寒川」と称したことが起源であるという。

寒川神社は、正月3が日に例年40万人近い人が初詣に訪れることで知られる。

「江」は、河川が増水するたびに入江を作ったことの名残であるとのことだ。

駅前のこぶし

寒河江市の人口は4万人余り。

市役所の建物は故黒川紀章さんが若い頃設計したもので、建築に詳しい人には知られた存在だ。

駅前では、ようやく、こぶしが花をつけ始めていた。

私が寒河江から帰った翌日15日に、山形市で桜が開花したが、寒河江の開花は例年それよりも遅くなる。

付近の有名な桜の名所で開花するのは、今年の予想だと4月下旬、見ごろは今月の末頃とのことだから、まだまだ「桜の春」は遠い。

人の姿は少ない

「春の遅い陸奥」以上に寂しいのは、駅前に人通りが少ないこと。

駅前を歩いても、店を辞めてシャッターが下りたままの建物を、何件か見かけた。

日本全国、何処に行ってもシャッター通りが増えている。

「日本はこのままでいいのだろうか」、そんな現実を見るたびに思う。

東京に帰ってくると、人の多さにうんざりする。

しかし、地方を旅して人が少なすぎるのはもっと悲しい。

駅前で、子供の顔を見たのは、駅前に立つ像ばかり。

冷やしたラーメン

冷たいスープ仕立ての「冷たい中華」。

寒河江やその近辺の名物だ。

東京で食のフェスティバルなどがあると、列ができるほどの人気メニューだが。

地元の店のお客さんの数は、それほど多いようには見えなかった。

「国土の均等な発展」を実現しないと、日本の地方はダメになってしまう。

そんなことを想った。

雪の朝倉氏遺跡へ


朝倉氏遺跡へ

大親友のいる福井に行ってきた。歯を治療するためだ。

ここ何十年も、歯の治療の必要があれば、福井の友人に治療してもらっている。

急いで処置してもらったりの無理な注文にも応じてくれるので、新幹線に乗って行くだけのメリットがあるのだ。

昼食に、福井のおいしい「おろしそば」をご馳走になったあと、「朝倉氏遺跡」を案内してもらった。

白戸家のふるさと

朝倉氏遺跡は、以前にもこのブログでご紹介した。

ソフトバンクのCM「白戸家のふるさと」で紹介されているから、ご覧になった方も多いことだろう。

福井市の郊外、美濃街道で大野市方向へ向かう途中、一乗寺川に沿った山間の地にある戦国武将「朝倉氏」の遺跡だ。

唐門が見えてきた

朝倉氏の5代義景は、のちの15代将軍・足利義昭を一乗谷に迎え歓待する。

朝倉氏は時の有力大名の1人であったが、天正元年(1573)、織田信長に敗れて滅亡し、一乗谷の町は焦土と化してしまう。

そして、戦国城下町の街並みは、その後400年にわたって埋もれて残されてきたが、昭和46年以来今日まで、発掘・整備が進められている。

朝倉義景の館の跡に建つ「唐門」。ここが館の入り口にあたる。

唐門は義景の館にあったものではなく、義景の菩提を弔うために滅亡後に作られたものという。

訪れる人は少ない

門を入ると、背後の山の斜面近くまで館の建物が立ち並んでいた。

雪のないころに訪れると、発掘された礎石から全体像がわかるのだが、今は雪に覆われて何も見えない。

お地蔵さん


館の周辺には4つの庭園があり、国の特別名勝に指定される素晴らしいものだ。

しかし、今回は雪が深くて、訪ねることはできなかった。

石仏も、だいぶ雪に埋もれていた。

雪道

冬の間、北陸ではこの日のような鉛色の雲に覆われ、明るい陽射しが頭上に輝くことはあまりない。

友人のお父さんは、この冬、太平洋側の名古屋に行き、雪のない風景を見て「天国だ」と話していたそうだ。

90の高齢になって車の運転もやめた今、雪で買い物に行けないのがつらいということだ。

私も、北陸・東北の暮らしが長かったから、その気持ちはよくわかる。

この時期、日本海に面した越前海岸では、水仙が花咲く時期を迎える。

日本海の怒涛が押し寄せ、横殴りの雪が吹き付ける中、海沿いの急斜面に水仙は可憐な花を咲かせるのだ。

清水門。

福井から帰った翌日、皇居の清水門の近くを走っていたら、水仙が咲いているのを見つけた。

越前海岸に咲く水仙と同じ種類の水仙だ。

こちらは、明るい日差しをいっぱい浴びて育っている。

太陽のありがたみを感じると同時に、雪国に暮らす人や水仙に「エール」を送りたい気持ちになったのだった。


「後悔」~今頃悔やんでも遅いということ


左内町

福井市の中心部からそれほど遠くない所、足羽山の麓に左内町という町がある。

幕末事情に詳しい方ならご存知、橋本左内ゆかりの町だ。

当時の福井藩主・松平春嶽の側近として活躍、西郷隆盛からも一目置かれた人物で、この地に彼の墓と、その名を冠した「左内公園」がある。

左内像

左内公園にある橋本左内の銅像。

橋本左内は天保5年(1834)福井藩医の家に生まれた。号は「景岳」。

幼少の時から学問を好み、24歳の時には藩校「明道館」(藤島高校の前身)の学監同様心得に就任。

その才能を見込まれ、松平春嶽の側近として活躍する。

人物像1

特に将軍の後継問題では、春嶽の意を受けて、一橋慶喜の擁立に向けて重要な役割を果たすが、それに反対する大老・井伊直弼に捕らえられて、伝馬町の獄内で刑死する。

いわゆる「安政の大獄」だ。
享年、わずか25(満年齢)であった。

人物像2

『長州藩の吉田松陰とともに、「安政の大獄」において日本が失った最も惜しい人物である』との説明も、墓所の近くに紹介されていた。

左内

橋本左内とは一体どんな人物であったのか。

それを知る手掛かりとして、15歳の時に彼が書き残した「啓発録」という文章がある。

自戒のために書いたものだが、15歳の人間が書いたとは思えない立派なものだ。

「自分がこれからどう生きるべきか」、5つの柱を立てて語っている。

啓発録

一、稚心を去る 

稚心とは、幼い心。甘えたりせずに、自立を目指す。

一、気を振るう

気とは人に負けない気持ち。恥辱を無念に思う心を強く持つ。

一、志を立てる

一、学に勉める

一、交友を択(えら)ぶ

こうした内容を、自分を強く諌め、目標にするのだという気概を込めて、書き残している。

左内墓所

この年になって橋本左内の「啓発録」を読むと、「後悔」の念にとらわれてしまう。

これまで、漫然と自分の持ち時間を費やしてしまったことに悔いが残る。

でも、いまさら悔やんでも遅いということだろう。

プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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