冬景色も美しい

ご心配をおかけしましたが、おかげさまでようやく風邪も治り始め、体調はもとに戻りつつあります。

今年も冬に入ってからインフルエンザの予防注射を打ちましたし、去年は5年間有効の肺炎の予防注射を打っていたので気が緩んでいたのでしょう。

インフルエンザとは違う風邪にかかってしまいました。

熱はないとはいえ、やはり体はつらく、しんどい日々でしたがようやく、食欲も少し戻ってきました。

やはり、風邪とはいえ、甘く見ているとつらい思いをします。皆さんもどうぞご注意を。

さて、今日はまだ走れないので、これまでに走りながら撮った美しい冬景色をご紹介したい。

新釧路川河口

北海道東部の釧路市。太平洋側なので雪は少ないが、一度降ったら冬の間、解けることはない。

冷え込みが厳しいと、氷点下20度まで下がることが年に数回ある。

昔、銭湯から上がって下宿まで歩く途中、1分もたたないうちにタオルが凍って立つという経験をした。

それだけの寒さだから走っても雪が解けず、靴が濡れることもない。若干、足元が滑ることはあるけれど。

家を出るときは3枚ほど重ね着をしても、風がなければ、走っているうちにTシャツだけでもいいほどになる。

釧路は水産、製紙が産業の中心で、決して美しい街とは言えないが、冬は雪が見事に化粧をしてくれる。

鶴居村

丹頂鶴が給餌場に集まってくるので有名な道東の鶴居村。

春から秋にかけては湿原の中で暮らすため、これほどたくさんのタンチョウを間近に見ることは殆んどない。

真冬にはこうして給餌場の近くに集まってくるが、よく見ないと雪の白さの中に紛れてしまう。

石川門雪景色

こちらは加賀百万石の城下町・金沢。

ここは金沢城の石川門のすぐ下。

雪吊りの左側の場所は、私が暮らしていた当時は花見の名所だった。

写真右手には、有名な兼六園がある。

この写真は今から11年前、市内をジョギング中に吹雪模様になったので写したものだ。

石川門

前の写真を撮ってから、振り向いて撮影したのがこれ。

北陸の冬らしい風情が撮れたので、今でもとても気に入っている一枚だ。

左の道路を渡った所が兼六園になる。

撮影日のデータを見ると、2月9日だった。

そしてそれから2か月少し後、4月13日の写真がこれ。

石川門を望む

石川城の内側から、石川門を撮影したもの。

屋根瓦には、戦に備えて鉛がかぶせてあり、桜に負けない白さだ。

兼六園

そして、同じ場所から方向を変え、兼六園の方にカメラを向けると、この写真。

まさに「春爛漫」を絵に描いたよう。

「冬来たりなば、春遠からじ」

今日は大寒、

本日の結論は、これに尽きる。



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「5連続敬遠」から20年~松井秀樹


松井引退表明

2012年12月28日、松井秀樹が引退を表明した。

プロ野球生活は、ちょうど20年だった。

松井がプロ野球に入る前年・平成4年の夏の甲子園、今では伝説になった松井の「5連続敬遠」の試合を、私は石川県民として熱く見守っていた。

星稜時代

1992年(平成4)8月16日、甲子園球場。

石川県代表の星陵高校は2回戦で、高知県代表の明徳義塾と対戦した。

この試合、超高校級のスラッガーとして名を馳せていた松井には5度打席が回ってきたが、全て敬遠。

一度もバットを振ることなく、結局試合は2対3で敗れてしまった。

そのうち7回の打席は1点を追う展開、2アウトでランナーがいなかったにもかかわらず敬遠されたのだった。

テレビ観戦をしていた私は「なぜ、正々堂々と勝負をしないのか」と怒った記憶がある。
試合後も、高校野球のあり方として、その是非をめぐって大きな問題にもなった。

試合直後に明徳義塾の監督にインタビューしたNアナは、まず「松井選手は5度の打席、すべて敬遠でしたね」と聞いた後、

更に「2アウトランナーなしの場面でも、敬遠でした」と聞いていた。

敬遠がこの試合のポイントだったことから、とても優れたインタビューだと思ったことを覚えている。

高校球児・松井

その年の末、「石川県の年末ハイライト」に詰襟姿で出演した松井を、間近で見る機会があった。

すでに巨人への入団が決まっていたが、テレビ出演に動じることなく堂々と受け答えをして、「普通の選手とは格が違うぞ」という印象を受けたことを覚えている。

それから、松井をずっと注目してきた。

根上町

2002年、松井がヤンキースに入団する前の年に取った写真。

松井のふるさと、石川県根上町(ねあがりまち、現在は合併で能美市になっている)の付近を何回か走った際に撮影した。

石川県の南西部、小松空港の近くの町だ。

2000年から1年間総理を務めた森喜朗氏も、根上町の出身。

ゴジラ松井と並んで二人が町の有名人だった。

野球の館

松井の実家の隣りには「松井秀樹 野球の館」(現在は松井秀樹ベースボールミュージアムに建て替えられている)があり、何回か中を見学する機会があった。

松井が子供のころ書いた野球に関しての作文や、野球選手としての歩み、獲得したタイトルなどが展示されていた。

ヤンキースに入団した年2003年4月8日、本拠地・ヤンキースタジアムの最初の試合で満塁ホームランを打った時のボールも飾られていた。

ヤンキースタジアムの土産

これは、ヤンキースタジアムに行った娘から、女房への土産。

私より女房の方が、熱狂的な松井のファンなのだ。

2009年のワールドシリーズでMVPになったのは、素晴らしい快挙で、私も心から祝福した。

栄冠は君に輝く

根上町には、野球に関係する有名人がもう一人いる。

高校野球大会に流れる名曲「栄冠は君に輝く」の作詞をした加賀大介(1914-1973)だ。

加賀は、1948年(昭和23)30回記念大会の作詞募集に応じ、見事、最優秀作品に選ばれた。

加賀は松井の通った小学校の先輩で、野球が好きだったが、16歳の時、野球の怪我が元で足を切断、野球への想いが強かったという。

その加賀大介が亡くなってからほぼ1年後、松井秀樹は生まれている。

松井秀樹こそ「栄冠は君に輝く」という詞に相応しい選手であったように、私は思う。

ベンチアートの松井

引退の会見で松井は、

「印象に残ることは、長嶋さんと二人で素振りした時間」と答え、

「今、自分にかけたい言葉は?」との問いに対しては

「よくやったという気持ちはありません」「頑張ったねというのもない」
「もう少し、いい選手になれたかも ですかね」と話していた。

星稜の山下監督が
「松井は、努力の天才だと思ってます」と話したのは、このことなのだろうと思う。

素晴らしい選手だった。

有馬の猫塚と綱町三井倶楽部

三田通りから綱の手引き坂へ

右の写真は、三田大通りから東京タワーを見ている。
そして、左側に写る大きなビルの手前に、左に折れる道がある。それが左の写真。

このゆるやかな坂は「綱の手引き坂」という。
平安時代の武将・渡辺綱がこどもの頃・乳母にひかれて歩いたという言い伝えがある坂だ。

この坂を上ってゆくと、わが母校・赤羽小学校と、綱町三井倶楽部がある。

坂の右手は、江戸時代は久留米藩・有馬家の上屋敷があったところ。

済生会中央病院や、都立三田高校も上屋敷の敷地だったところにある。

赤羽小

港区立赤羽小学校。
久しぶりに母校の中に入ってみた。

「有馬の猫塚」を久しぶりに見るためだ。

猫塚

猫塚は、隣の三田高校との境の壁際にあった。
小学生当時、塚がどんな様子だったのか、はっきりとは覚えていないが、入江たか子さん主演の怖い化け猫の映画を、小学生の頃見た覚えはある。

ただ、その舞台が鍋島だったのか、それとも有馬だったのかは分からない。

塚の横に立つ説明にはこう書いてある。

「今から160年ほど前、有馬藩の殿様に気に入られた女中がいました。
その女中は周りの物が嫉妬したせいで自殺してしまったのです。
その女中の飼っていた猫が主人の仇を討つために、いじめた老女を食い殺してしまいました。
そこで、山村典膳と小野川喜三郎という武士がその猫を退治しました。
この猫を弔うために建てられたのが猫塚です。
誰がいつ立てたのかは不明ですが、講談や歌舞伎で面白おかしく語り継がれています」

「猫が人間を食い殺す・・・」
子供はともかく、大人ならこの説明に納得する人はいないはず。

この塚の由来について、もう少し説得力のある説明がほしいところだ。

いったい、どのような出来事ががあってこの塚ができたのか、謎を抱えたまま校門を後にした。

三井倶楽部

赤羽小学校を出て、坂を少し上るとすぐに「綱町三井倶楽部」がある。
三井家の迎賓館として、大正2年に建てられた名建築だ。

設計は、ジョサイア・コンドル。
鹿鳴館を設計した有名な建築家だ。

実はこの「綱町三井倶楽部」の中には、まだ一回しか入ったことはない。
三井グループ企業による会員制クラブだから、なかなか入るチャンスがないのだ。

7年前に

ところが、今から7年前のこと。
本館の隣の新館でのランチは一般客も利用することができたので、友人と一緒に行ったことがあった。

その時のデザートは「秋の夜空」という、洒落た名前がついていた。(記念に撮っておいた写真がこれ)

そして食事のあと、歴史的な建物である本館の中を案内してもらった。

館内にはターナー作と伝えられる絵が飾られ、バーには世界の銘酒が所狭しと並んでいた。

終戦後、この建物は進駐軍に一時接収され、「夜のGHQ」とも呼ばれていたという。
そんな説明を受けたことを覚えている。

綺麗になった

7年前に撮った写真(上)と最近撮った写真を比べると、建物がずいぶんきれいに、そして明るくなっているのがわかる。

建ってから100年近く経つとは思えない。相当、手間と金をかけたのだと思う。

7年前、食事の後に建物の裏に広がる庭を、建物のテラスから見せて貰ったが、素晴らしいものだった。

もう一度

この写真は、「綱町三井倶楽部」のホームページに載っているものだが、もう一度、あの庭を見てみたい。

以前のように、一般客も入れるような機会を作ってもらえないだろうか。

子供のころから見てきたファンの、率直な思いなのだが。





田沼意次は 悪人だったのか

田沼意次(1719-1788)。
学校ではワイロで名高い江戸中期の老中と習ったが、本当なのだろうか。

しばらく前、静岡出身の先輩から、こんなお菓子をいただいた。

ワイロ最中

東名高速の牧之原SAで、毎週土曜日朝に売り出されているという「ワイロ最中」。

「話の種に一度買ってみたいお土産ランキング」第4位に選ばれたこともあるとかで有名らしい。

この最中を売り出したのは静岡県の相良町商工会青年部OB有志のグループ。(相良町は、現在牧之原市になっている)

田沼意次が遠江・相良藩の初代藩主だった縁から、この商品が企画されたという。

注意書き

箱の横に、こんな注意書きがあった。

中はどうなっているのか、楽しみに開けてみた。
中味 これは紙

これは、饅頭が印刷された紙。

「付け届けは饅頭にかぎるのう」と書いてある。

昔の東映時代劇なら、この紙の下には、山吹色に輝く小判が眠っているはず。

これが中味

期待して開けてみれば、やっぱり「もなか」だった。

一応、小判の形をしているのは約束通り。

そのほか、お茶と「したごころ」と書かれた「のし袋」が入っていた。
この「のし袋」は何かの折に使えると思い大事にとってあるのだが、いまだ出番はない。

入れ物の裏にこんなことが

そして箱のふたの裏に、田沼意次の功績を記した文が書いてある。

それによると、政敵によって失脚させられ、ワイロ好きの悪人という汚名を着せられたが、実は画期的な政策を次々に打ち出した人物であったという。

例えば、「幕府財政の立て直しのため、初めて予算制度を確立した」「通貨の統一を図った」「海外貿易に力を入れ、絹の国産化により貿易黒字を達成」等々、「藩という枠ではなく日本全体を見ていた天才的な政治家だった」ということが書かれている。

墓

駒込の勝林寺にある田沼意次の墓。染井霊園の近くにある。

確かにネットで調べてみても、田沼意次は単にワイロ好きの大悪人ではなく、幕府財政立て直しのために様々な取り組みをした人物のようだ。

とかく勝者による歴史の記述は、敗者には厳しいものだ。

地元ゆかりの人物の悪評を逆手に取ったこの土産品。

地元の評価は様々だというが、私にとっては田沼意次という人物や相良町・牧之原という土地を知るきっかけになった。

お墓の田沼意次もうれしいのではないか。

イタリア大使館の思い出

イタリア大使館
港区三田2丁目にあるイタリア大使館。

イタリア大使館と私が通った赤羽小学校は、隣組といってもよいほど近いところにある。

江戸末期・弘化3年(1846年)の地図を見てみよう。
現在の建物を、少し書き加えてみた。

地図・江戸

現在の慶應義塾大学の場所は、九州の肥前島原藩の中屋敷があった場所。
地図の右隣り(方角では北隣になる)は、忠臣蔵の赤穂義士が、本懐を遂げたあと預けられた4つの大名屋敷のひとつ、伊予松山藩の中屋敷があったところだ。
その一部が現在のイタリア大使館だ。

赤羽小学校は、久留米藩の上屋敷があった場所にある。
都立三田高校や、済生会中央病院も同じ敷地内だ。

赤羽小学校には、大使館の中で働く日本人の家庭の子供も、私のクラスの一人を含めて何人か通ってきていた。
同窓生の中にはそうした子供と友達になって、大使館内でよく遊んだと話す仲間も多い。

私のクラスの子は女の子だったので、私は残念ながら大使館の中へ入って遊ぶことはなかった。

だから、大使館の中にある赤穂浪士の顕彰碑を見たことはなかったのだが、先日NHKの「ブラタモリ」で初めてみることができた。

赤穂義士顕彰碑
立派な碑だ。
当時の駐日イタリア大使が、昭和14年に建てたものだという。


イタリア大使が作る
徳富正敬とあるのは徳富蘇峰、
碑の揮毫は彼の手によるものだ。

番組に登場したイタリア大使は、「イタリア国内でも、忠臣蔵の話はよく知られている。
日本における英雄伝説の象徴が公邸にあるのは、とても光栄なこと」と話していた。

安兵衛の墓
この屋敷で切腹したのは大石内蔵助の子供の大石主税など10名。

これは、赤穂浪士の中でも特に人気の高い堀部安兵衛の墓。安兵衛もこの屋敷に預けられた。

堀部安兵衛は仇討急進派。お家の再興を第一に考えて慎重な大石内蔵助との間で、当初は厳しい意見の対立があったらしい。

ウィキペディアにはこう書いてある。

「元禄14年11月10日(1701年12月9日)、大石良雄(内蔵助)と堀部武庸(安兵衛)は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談に及んだ。大石は、一周忌となる元禄15年3月14日(1702年4月10日)の決行を武庸に約束して京都へと戻っていった。

しかし帰京した大石は主君浅野長矩の一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。再び大石と面会するために武庸は、元禄15年6月29日(1702年7月23日)に京都に入った。事と次第によっては大石を切り捨てるつもりだったともいう。しかしその後、浅野長広の浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となった。ここにきて大石良雄も覚悟を決めた。京都円山に武庸も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した」

安兵衛にとって三田は「大石との会談、そして切腹の地」と、深い縁があった土地だったのだろう。


浪士たちを預かった当時の伊予松山藩主は松平定直。
「浪士たちへの対応で、世間からは厳しい目で見られていたようだ。

ウィキペディアにこうある。

「この頃、病床にあった定直は江戸城への登城ができず家臣を通じてこの命令を受けた。元禄16年1月5日(1703年2月20日)になって浪士達と会見。会見の遅れへの謝罪と仇討ちへの称賛を送り、「もっと大歓迎をしたいところだが、幕府からのお預かり人であるためできない。しかし諸事不自由はさせない。用事があれば遠慮なく家臣に申し付けてくれてかまわない」と述べている。但し、松平家の浪士達への待遇は大石良雄らを預かった細川綱利に比べ劣ったようで、「細川の 水の(水野忠之)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」(当時の狂歌)と江戸の武士や庶民からは批判された」

しかし、ここでの浪士たちの扱いは、落首で批判されたようなものではなく、丁重な扱いであったようだ。

「当時としては稀な罪人扱いでは無く、縄も格子もかけられず、邸内なら散策も自由に出来たという。また、2汁5菜に加え夜食や寝酒など相当なご馳走攻めに辟易した様子を記した預かり先の記録も有名」との記述がウィキペディアにあった。


ここで切腹をした大石主税良金は、討ち入りに参加した者の中での最年少で、数え年で16歳。
「切腹当日は将として最期まで扱われ、真っ先に切腹し首実検を受けた。若年にも関わらず堂々として余裕ある態度に、検視役人が泣いたという逸話がある」とのことだ。


ところで、イタリア大使館では、もう一つ話がある。

イタリア料理の普及の功労者

この本は、日本に本格的なイタリア料理を紹介するとともに、その普及に大きな貢献をした堀川春子さんの90年の人生を記録したもの。

実は、先ほど紹介した私のクラスメートのお母さんだったのだ。
ほんの数年前まで、彼女のお母さんがそんなに有名な人とは知らなかった。

春子さんの経歴を簡単に紹介する。

港区芝公園に生まれた春子さんは、しつけの厳しい母親に反抗して、昭和7年、15歳でムッソリーニ政権下のイタリアに渡る。
たまたま新聞の求人欄に「求む イタリアでの住込み家政婦 外務省」とあったのを見て応募したのがきっかけだった。

イタリア大使館付きの通訳官の家庭の世話をするのが仕事で、イタリアでの生活は6年を数えた。
そしてその間に、イタリア語とイタリア料理を身に着けて日本に戻ってきた。

そして、戦後間もなく三田のイタリア大使館で働くようになり、大使館内のパーティを手伝う中で更にイタリア料理を習得してゆく。
宿舎


そうした中、本格的なイタリア料理店を計画し、そのための人材を探していた伊勢丹から春子さんに声がかかる。
昭和37年、伊勢丹の地下に「カリーナ」をオープン。
昭和42年には白木屋に「サンレモ」
昭和46年には表参道に「トスカーナ」と、伝統的なイタリア料理を提供するレストランの立ち上げと運営に、中心となって活躍した。

昭和30年代といえば、スバゲッティといえば、日本国民のだれもがトマトケチャップべースで味付けしたものしか知らない時代だった。
その中、春子さんはトマトケチャップで作るナポリタンを店で出すことはなかった。

今では普通になったトマトソースのスパゲッティなど、伝統的なイタリア料理の紹介にこだわった。

カリーナのメニュー
カリーナのメニュー。
ミートソース 250円というのが時代を感じさせる。
東京オリンピック前の時代に「ボンゴレ」という言葉を知っていた人など、ほとんどいなかった。

こうして、伝統的なイタリア料理を提供する中で、多くの人が春子さんの味のファンになっていった。
「ヒデとロザンナ」のロザンナはよく店を訪れ、春子さんを「日本のマンマ」と慕ったという。

昭和48年には「イタリア料理研究会」を作り、イタリアでの料理研修ツアーの実施などを通じて、料理人の育成にも大きな役割を果たした。

昭和61年には、イタリアと海外との交流に貢献したとして、イタリア政府から「カヴァリエーレ(騎士勲章)」を受章している。

この本の作者の土田美登世さんによると、「平均的なイタリア料理店のクオリティは、イタリアよりも日本のほうが高い」と、あるイタリア人が語ったという。

その評価の背景で、春子さんが世にまいた種が大きく貢献していることは間違いない。

日本人で最初のイタリア料理人とされる堀川春子さんの歴史も、イタリア大使館の歴史の一ページとして記憶していきたい。
プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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