自然界に直線はない~小名木川

小名木川

借家の近くを流れる小名木川。

隅田川から分かれて墨田区、江東区を一直線に流れる。

「自然界に直線はない」
バルセロナのサグラダファミリアの設計で知られるアントニ・ガウディの設計思想がそれであったと聞いた覚えがあるが、その言葉通り。

小名木川は自然河川ではなく、徳川家康の命を受けて1590年ごろに開削された運河、つまり人工河川だ。

万年橋・廣重

小名木川は、隅田川から分かれる形で、東の方に一直線に伸びている。

隅田川との合流地点に架かる橋が「万年橋」。

歌川広重は、その万年橋をこんなふうに浮世絵に残している。

万年橋だから亀を大きく描いていて、有名な作品の一つだ。

富士山が正面に描かれているから、小名木川の方から隅田川を望んだ構図といえるだろう。

江戸時代は、富士山がこんなにも近くにあったのだと思わせる。

今の万年橋

こちらは、現在の万年橋。

隅田川は画面の左側だ。


江戸中期の小名木川

江戸時代中期の古地図を見ると、こんなふうに描かれている。

小名木川を通じて、当時塩づくりが盛んだった行徳から塩が運ばれ「塩の道」ともよばれたという。

そのほか、東北から米も運ばれ、江戸の物流に大きな役割を果たしていた。

少し余談になるが、江東区は現在に至るまで、埋め立てによって面積が数倍も増加しているのだが、
この地図を見ると、現在の江東区役所がある場所は、当時はまだ海であったことがわかる。

中川舟番所

江戸時代には、旧中川との合流点に「中川船番所」が設けられていた。

そこから水路が各地につながっていて、幕府は江戸を出入りする船を取り締まっていたのだ。

昭和40年代

昭和40年の、小名木川の写真。

物を運ぶ船が何艘も見える。
まだまだ、小名木川は水運に大きな役割を果たしていた様子がわかる。

今の小名木川

今の小名木川。

小名木川の両岸は遊歩道になっていて、頻繁に走る機会があるが、船の姿は殆んど見かけない。

たまに見かけるのは、川に浮かぶゴミを清掃する船、
物を運ぶ船の姿を見たことは一度もない。

美しい水辺の風景が続いているが、生活感はなくなってしまったようだ。

旧中川との合流地点

江戸時代、小名木川と合流していた中川。

荒川との合流点に水門が作られ、今は池のようになっている。

ボートの練習にはもってこいの環境で、川沿いにはボートの艇庫もいくつかある。

そして最近は、先日も紹介した水陸両用車が水上運行をする場所にもなっている。


”ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

よどみに浮かぶうたかたは、 かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人とすみかと、また かくのごとし”




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町なかのデザイン~寄席文字

金杉橋から古川を見る

JR浜松町駅に近い金杉橋の上から、古川の河口方向を見た写真。

いつも、屋形船が何艘も停泊している。
写真奥のJRの鉄橋の下をくぐると、東京湾だ。

船宿が軒を並べる

古川沿いに今も船宿がいくつか残っていて、釣り、納涼のお客さんたちが訪れる。

私も子供のころ、ここから船に乗り、東京湾に潮干狩りなどに出かけた思い出がある。

手水鉢

この船宿の前に、石でできた手水鉢のようなものがあり、「め組」の関係者の名前が彫られていた。

「め組」は、江戸時代、このあたりを受け持っていた町火消しの組で、この付近の歴史を思い起こさせる。

字の作者は

私が興味を持ったのは、この字体。

何とも形がよくて、美しい。

船宿名の左側に「橘右近 筆」とある。

以前から、この「橘右近」という名前を聞いたことがあったが、この文字がどんなもので、どんな特徴があるのか全く知らなかったが、ネットで調べてみると、興味あることがわかった。

それは、橘右近(1903~1995)が生まれた場所は、

ウィキペディアによれば、浜松町とあるから私と同じ「芝大神宮」の氏子ということだ。

さらに、生まれた年も私の父とほぼ同じだから、一層、親近感がわく。

笑点のタイトル

橘右近とはどんな人物か、

ウィキペディアには「橘流 寄席文字家元」と紹介されている。

人気番組「笑点」のタイトルも、橘右近の手になる「寄席文字」で書かれている。

橘右近は19歳で落語家に弟子入りをしたが49歳で廃業、その後、「寄席文字」の書家専業となった。

彼が書家になった背景には、

寄席の看板や「めくり」に用いられる寄席文字は、江戸期から専門の職人が書いていたが、寄席が減つて職人もいなくなってしまったこと、

そして、彼が寄席にまつわる資料を豊富に集めていたということがあった。

そして、橘右近は見よう見まねで寄席文字を書き始め、少しずつ自分のスタイルを確立していったという。

中村座の看板

これは、歌川豊国の「中村座正面図」(1817・文化14)

寄席文字は、

歌舞伎の看板などに用いられた勘亭流と、提灯や半纏などに使われた字体を折衷して編み出された文字で

芝居文字、相撲文字などと共に「江戸文字」の一つ。

寄席文字


寄席文字の特徴は、

①少しでも多くの客が寄席に集まって大入りになるように、字を詰まり気味に、隙間が最小限になるように書く。

②客入りが尻上がりになるように、右肩上がりに書く のだという。


橘右近は、亡くなる1年前に、

「橘流寄席文字 家元」は一代限りとして、その役と家元印を一門の集まりである「「寄席文字橘会」に委譲した。

現在は、一門のメンバーが各地で寄席文字の講習会などを開いて、寄席文字を次の世代に伝える取り組みをしている。


弟子の橘左近の次のような話がネットに乗っていた。

”「葬式は芝の増上寺で、葬儀委員長は柳家小さんにしてくれ」とのことだったが、その通りにかなえることができ、千人以上の参列者もあった”


橘右近は、寄席文字の、いわば"中興の祖"、

江戸文化を後世につなげる貴重なつなぎ役を果たし、多くの人がそれを認めていたということなのだろう。

この看板の「訴求力」はいかが?

外堀通りの竜閑橋交差点

千代田区内神田で、こんなパワーあふれる立て看板を見かけた。

ここで横断して、交通事故に遭遇しても、保険金がもらえないことがあるというのだ。

これは、見る人に訴える力がありそうだとカメラに収めた。

場所は、千代田区内神田の外堀通り・竜閑橋交差点。

写真の道を正面方向にまっすぐ進むと、東京駅八重洲口前に通じる。

左に入る道もあり、三叉路となっている。

交通量もそこそこ多い通りだ。

キャッチコピーの力

「死亡事故発生地点

ここを横断すると万一のとき 保険金がもらえない場合があります」

”こんな看板を見て、なおかつここを横断しようとする人はいるのだろうか”と思うくらい力強く、私に迫ってきた。

この看板の右1メートルの所から、この交差点を再び撮影してみた。

看板の立つところ

看板は、画面の中ほど左の金属柱にくくりつけられていて、看板の白い側面が見える。

ご覧のように、ここには横断歩道が設置されておらず、道路の反対側に渡るには、手前の道路を右か左にしばらく行ったところにある横断歩道を渡らなければならない。

そして、この場所はガードレールで塞がれていないので、思わず渡ってみたくなる。

そんなロケーションに、この看板は、危険な横断をやめさせる効果を果たしている。

そもそも、道路上で歩行者と車がともに動いていて交通事故になった場合、どちらかが100%責任があるということはなく、過失の割合によって損害を賠償するというのが原則だと思うから、

保険金がもらえない場合がどの程度あるのかは良くわからない。

ただ、私のように、日々、お金に苦労して生きている人間にとって、とても訴求力のあるキャッチコピーだと、感心した。

皆さんは、この看板を見た後、この場所を横断しますか?

いつもとちょっと違う~東京タワーのライトアップ

このライトアップはなんだろう

9月2日から4日まで、東京タワーのライトアップが、いつもとはチョット違っていた。

ここは、東京都立芝公園。
公園の一角には「開拓使仮学校跡」と書かれた碑が建っている。

開拓使仮学校とは、クラーク博士の「少年よ大志を抱け」との言葉で有名な札幌農学校の前身で、

明治2年、増上寺内であったこの一角に建てられている。

そんな由緒のある公園だが、東京タワーのライトアップを見るポイントの一つでもある。

第一展望台に光によって描かれたデザインが、少し、いつもとは違っていた。

しかし、ここからだとデザインがどんなものなのか、はっきりとわからない。

そこで撮影場所を移動してみた。

このデザインはなんだかわかりますか

正面から見たのが、この写真。

この徽章のようなデザインは、何を表しているのか、皆さんはお分かりだろうか?

私は分からなかったので、東京タワーのホームページで調べてみた。

すると、9月2~4日は「ドラえもん誕生日 特別ライトアップ」と書いてある。

そして、このデザインは、

ドラえもんが、いつも首につけている鈴であることがわかった。

ウィキペディア等で調べると

ドラえもんの誕生日は、「2112年9月3日」。

つまり、ドラえもんの誕生日は22世紀なのだが、タイムワープで時間を遡ってやってきたのだ。

その理由は、出来の悪いのび太の歴史を修正することで、のび太の子孫をしあわせにするためだという。

そして、この写真の左側、方角でいうと第一展望台の南側のところには、別の文字も見える。

南側には2020

それは、今年6月7日から9月7日の夜まで、ずっと点灯されている「2020」という数字。

2020年に東京オリンピックを誘致すべく、関心を高めようというものだ。

タワーのホームページには

9月5日~7日は「2020五輪 東京開催熱望 ダイヤモンドヴェール」と名付けたライトアップを行うと書かれている。

この写真は、今年3月にIOCの委員が都内を視察に訪れた際に撮影したもの、

開催都市が目前に迫った今、9月5日からのライトアップがどのようになるのか、多少楽しみでもある。

晴れた日のタワー

現在の下馬評では

マドリード、イスタンブール、東京の3つの立候補都市の中で、東京が僅かに有利という記事も見られる。
 
反面、「福島第一原発の汚染水漏れ事故が大きな懸念材料」とする報道もある。

49年前の東京オリンピックでは、サッカーの3位決定戦の試合を見に行ったことを思い出す。

開会式当日、東京の空にブルーインパルスが描いた五輪マークを感動しながら見たことも忘れることはできない。

再び、東京でオリンピックを見ることができるのだろうか、

日本時間の9月8日午前中、この写真のような「晴れ晴れ」とした報告が届くのかどうか。

気になってきた。

森永ビルに巨大広告~ミルクキャラメル100周年

森永本社ビル

JR田町駅前の森永製菓本社ビルの壁面に、巨大な広告が出現していた。

「森永ミルクキャラメル 100周年」と書いてある。

ビルの8階分のスペースを利用した、力の入った大広告に、思わず目を奪われた。

森永ミルクキャラメルといえば、子供の頃食べたお菓子の代表格。

近頃は長らく口にすることもなかったが、現在も森永の定番商品の一つとして健在のようだ。

デザイン切手

森永製菓のホームページによると

森永の創業は1899年(明治32)、キャラメルは創業当時から製造していたのだが、

そのキャラメルの名称に”ミルク”をつけ、「森永ミルクキャラメル」としたのが、今から100年前の1913年(大正2)の6月10日だったとのこと。

つまり、「森永ミルクキャラメル」と名前がついてから100年で、日本でのキャラメルの歴史はもう少し古いことになる。

これは平成11年に発行された「20世紀デザイン切手シリーズ」の第2集。

20世紀を象徴する題材を切手にしたものだ。

野口英世、南極探検の白瀬中尉などと並んで、右下にミルクキャラメルに題材をとった切手が入っている。

切手のデザイン

キャラメルは、森永創業者の森永太一郎が、貿易商の店員としてアメリカに渡っていた時に出会ったもの。

日本の子供に栄養価の高い菓子を作りたいと、洋菓子の製法を身に着けて帰国し、はじめはわずか2坪の店からの出発だったという。

そしてキャラメルの大ヒット、庶民の暮らしの中に定着していった。

生活史の中では、特筆される出来事だったのだろう。

そして現在だが、

森永ミルクキャラメルは、森永の「菓子の定番7商品」(ビスケット、小枝、おっとっと、チョコボールなど)の一つとして、今なお健在だという。

しかしながら、森永はキャラメルのシェアの6割を占めているが、市場の縮小で近年の売り上げは減ってきているという。

キャラメルの外装

「森永ミルクキャラメル」の前後に登場した長寿の食品・嗜好品には

1884(明治17)三ツ矢サイダー
1919(大正8)カルピス
1925(大正14)キューピーマヨネーズ
1935(昭和10)ヤクルト

などがある。
キャラメルは、サイダーに次ぐ長い歴史を持っていることになる。

今から6年前の2007年、北海道の牧場が発売する「生キャラメル」が全国的な評判となったことがあった。
現在でも、北海道土産として大人気商品となっている。

してみると、キャラメルには、まだまだ可能性がありそうだ。

はたして、森永ミルクキャラメルは、この後いつまで、その長寿記録を伸ばしていけるのだろうか。

プロフィール

め組のかった

Author:め組のかった
「惑わず」の年から走り始めて四半世紀。還暦で初フルマラソンを走り、2010年には66キロのウルトラを制限時間ギリギリで完走。現在も月に200キロ以上を目標に走り込みながら、写真を撮っている。
このブログは、ジョギング中に撮り貯めた写真によるフォトエッセイを目指している。
タイトルは「おくのほそ道」をもじってみたのだが、さて、わかるかなあ?

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